カーター政権の財務長官マイケルブルーメンソールは1926年、
ベルリンの北郊ブランデンブルグ市で生まれた。
ユダヤ系の父母は高級服飾店を営んでいたが、彼が10歳の時に一家の環境は大きく反転した。
台頭したナチスはユダヤ人排斥を強め、38年11月の月の明るい夜、
ゲッペルスの突撃隊が267カ所のシナゴーグを打ちこわし、
7500軒のユダヤ人商店を襲って略奪した。
両親の店も破壊され、彼自身もヒトラーユーゲントの少年に暴行された。
一家は故郷を捨てて命からがらナポリ発の貨客船に逃げ込んだ。
船はスエズを超え、英領のボンベイ、コロンボ、シンガポールに寄港した。
その都度、下船を望んだが、どこもユダヤ人の上陸は認めなかった。
一家がナポリを出たの出たのと同じ頃、ハンブルグから2000人のユダヤ人を乗せた
セントルイス号が出港した。
しかし目的地の米保護領キューバは上陸を拒み、ニューヨークでは接岸すら許されなかった。
1ヵ月の漂流のあげく、船は欧州に戻り、何人かはベルギーで下船できたものの、
まもなくナチがそこを占領して、乗客のほとんどは強制収容所に送られた。
しかしブルメンソールの船は幸運だった。
航路の終点、上海でユダヤ人は下船することができた。
日本人租界、虹口はビザを持たない彼らの居住も認めてくれた。
虹口からガーデンブリッジを渡った先のバンドにはアヘン貿易で儲けた
サッスーンやジャーディンマセソンなどユダヤ財閥のビルが立ち並ぶ。
彼らは中東のセム系ユダヤ人(セファルディ)で、白人系ユダヤ人(アシュケナージ)には冷たかった。
実際、パレスチナに逃れてきたアシュケナージは上陸を断られ、ときには射殺された。
彼らを受け入れたのは関東軍が率いる満州国か上海の日本人租界だけだった。
そこに身を寄せたのは約3万人。
ブルメンソールはそれほどの僥倖を噛み締めて虹口の主要施設となった旧日本人学校に入った。
やがて戦争が終わり、一家は上海を出られることになったが、ユダヤ人はどこでもダメ。
2年待ってやっと米国が入国OKを出した。
驚いたことに民主党政権下の米国では、親切だった日本人が支那人より悪い侵略者とされていた。
日本人の世話で生き延びた。
などと言える環境ではなかった。
賢しいブルメンソールは素早く良い日本を自分の記憶から切って捨てた。
実際、米民主党は戦後も日本を敵視し、戦前と同じように、
それが共産党政権になろうとも、支那人を使って日本の抑え込みを続けた。
中共は米国がこしらえた南京大虐殺の嘘話に乗っかって日本人に贖罪を迫り、
ODAと技術援助を引き出して半分近代化に成功した。
それは米国には格好の奴隷工場に見え、企業は続々と支那に進出し、
米支の結びつきは蒋介石時代ほどに強まった。
その一翼を担い、名をあげたブルメンソールはつい先年、中共の招きで久しぶりに上海訪れた。
今は「上海ユダヤ難民記念館」の名を改めた虹口の日本人学校で彼は
「日本は残忍だった」「親切だった支那の友人の恩を忘れない」とあいさつした。
恥を知らない男だった。
武漢ウィルスが流行って、イスラエルは米国と並ぶ支那との往来を断ち切った。
そしたら戴玉明駐イスラエル代理大使が「私は悲しい。
ホロコーストの中でユダヤ人を受け入れてやった支那にこんな冷たい扱いをするのか」
(隔月誌「みるとす」)と記者会見でその薄情を非難した。
イスラエルはそれまでグルメンソール的発言を特に否定してこなかったが、
今回は違った。
「何を言う。 ユダヤ人を助けたのは日本人だ」「上海は日本が管理していた。
歴史を捏造するな」(同)代理大使は公式ホームページで捏造の部分を削除した。
コレラは時に歴史歪曲を正す働きもする。
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