京都御所の御用を務める彫刻家、堀田瑞松は帝も感嘆するいい仕事をしたと
高等小学校読本にある。
瑞松は明治後維新後もいい仕事をした。
その時代、艦船は木造から鉄の船に変わっていったが、
ついでに艦底を蝕む錆という難題も生まれてきた。
瑞松は漆が錆をよく抑えるのを知っていた。
漆を素材に防錆を試して、明治18年、堀田式錆止め塗料を世に出し、
日本の特許第一号となった。
その効能を最初に立証したのは露巡洋艦ドミトリードンスコイだった。
新鋭艦なのに錆に泣かされ、たまたま寄稿した日本で瑞松の話を聞いた。
藁にもすがる思いで塗ってみたら効果は抜群だった。
艦齢も伸び、17年後の日本海海戦にバルト艦隊の主要艦の一隻として臨めた。
この海戦、露側の圧勝が囁かれていた。
なぜなら当時の戦艦は西欧が独占製造し、露側は仏から戦艦ツェザレノヴィッチを買い、
それをモデルにボロジノ、スワロフなどを建造した。
日本も欧州製を買っていたから日露共に戦艦の性能はほとんど互角だった。
ということは日本の三倍の戦艦数を持つロシアが圧倒的に有利だった。
それをどう覆すか。
下瀬雅弁は敵の砲弾の三倍の破壊力を持つピクリン酸炸薬を考えた。
ただそれは鉄に触れた途端、爆発する。
鉄の弾頭にどう封じ込めるか。
下瀬はそこで瑞松の漆を思い出し、弾頭内部に漆を塗ってみた。
下瀬火薬の発明の瞬間だった。
旗艦スワロフ以下の露艦隊は対馬沖で日本艦隊が放つ砲弾を始めてみた。
「砲弾は艦体のどこかに触れただけで深紅の炎を噴き出し全てを焼き尽くした」(
プリボイ「ツシマ」)。
鋼鉄の装甲を施したオスラビアが燃えて沈み、スアロフは鉄屑と化した。
ドミトリードンスコイもまた深紅の猛火に包まれて鬱陵島沖で自沈した。
日本人は強力で無慈悲な白人国家の侵略を自分たちの知恵と工夫で防いだ。
日本はその後も世界が驚く知恵を次々に披露した。
原始構造について欧米は電子と陽子が、「まるで小豆ご飯のように入り乱れて存在する」
と思っていた。
長岡半太郎は日露戦争の頃「土星とその輪のように陽子を中止に周辺を電子が
回っている」とした。
大正期八木秀次は超短波宏用指向製無線アンテナを考案した。
昭和初期、高柳健次郎はブラウン管を使った映像受信に成功した。
最初に受信した映像は「イ」だった。
同じ頃武井武は非金属磁石フェライトを発明して特許を取った。
鉄でない磁石は例えば録音テープを可能とした。
白人たちは日本人の知恵をすぐに盗んだ。
ラザフォードは長岡理論を追認することでノーベル賞を受賞した。
八木の知恵は英米が即座に軍用レーダーにした。
高柳のテレビは米軍が誘導ミサイルの目にした。
フェライトは戦後のどさくさに戦勝国オランダのフィリップス社が横取りした。
この技術で今のステルスが可能になった。
民間の技術を軍事に転用するのをスピン・オンと言う。
この一連の「盗んで軍事転用」
はさしずめスチール・オンになるか。
そんなコソ泥米国が大戦前、核分裂についての発表を突然止めた。
日本では1グラムのウラン235が臨界点を超すとTNT1万3500トンの
爆発力を持つのを知っていた。
仁科芳雄、湯川秀樹らが研究を始め、濃縮用のフッ化ウランも作った。
鴨緑江に70万キロワットの水豊ダムが完成したからその気なら核兵器はできた。
しかしそんな悪魔の兵器をいかな米国でも使うとは思えなかった。
開発は遅れて広島に原爆が落ちた。
科学者が白人の心根を持っていいたら日本はとっくに核を持てた。
そうなれば米国は報復を恐れ、広島には落さなかっただろう。
米国は戦後、日本人のずば抜けた科学する心を学術会議によって封印させた。
学術会議のいう平和は「白人の平和」なのだ。
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