【米中もし戦わば】025-02国連海洋法条約を無視し始めた中国

「海へのアクセスは自由であるべきか、それとも制限されるべきか」と言う問題は、

ローマ帝国が地中海を事実上封鎖していた時代にまで遡る問題である。

この問題を論じる上でまず上げておかなければならないのは、

1609年にオランダ共和国の法律家フーゴー・グローティウスがその著書「自由海論」の

中で提唱した自由海論だろう。

当時、オランダ共和国は海上貿易の首位の座をイギリスと激しく争っていた。

1635年、イギリス人ジョン ・セルディーがその名も「閉鎖海論」と言う著書で

オランダ人グローティウスに反撃した。

海は「青い領土」であり、他の領土と全く同じように1人の支配者が支配することが

できる、と言うセルディンの意見に対してグローティウスは、

海は貿易のためすべての国に開かれた国際的な領域でなければならない、と主張した。

1702年、やはりオランダ人の法律家コルネリス・ヴァン・ビンケルシュキが

グローティウスの自由海論の極めて強い実用的な適用法を考案したため、

この「自由海VS ・閉鎖海」論争は事実上決着することとなった。

ビンケルシェクは、「一国が沿岸を実際に支配できる範囲は、その国の海岸線から

武器が届くところまでとすべきだ」と主張した。

こうして、「大砲射程内ルール」が生まれた。

これにより、領海は当時の最新鋭の大砲の射程にほぼ等しい沿岸海里までとし、

その三海里の領海でのみ各国は他国の航行の自由に制限を加える、と言う規則が確立した。

領海を三海里とし、それ以遠は公海とするこの規則は国際的に広く受け入れられ、

1982年に国連海洋法条約が可決されるまで遵守された。

この条約は領海の範囲を12海里まで広げただけでなくその権利を上空・海底・海底の

下にまで拡大し、すでに述べたように、沿岸200海里の排他的経済水域(EEZ)をも規程した。

海洋権益に関する一見明快なルールを確立したことによって、海洋法条約が

世界の大部分の海については平和と安定をもたらしたのに対して、

東シナ海と南シナ海においては、それは正反対の影響を及ぼした。

その主な理由は、中国が、「航行と上空通過の自由は、排他的経済水域内でも

制限される」と言う従来にない立場とっていることである。

現在、中国はこれを法的根拠として振りかざし、当該地域では現在アメリカの

軍艦及び軍用機に行っている嫌がらせを正当化している。

誤解の余地を残さないために言っておくと、中国の立場を裏付ける文言は

現行の条約の中には一切ない。

このアジアにおける中国流モンロー主義に等しいEEZ作戦は、

中国が新たに仕掛けてきた極めて革新的な「三戦」、つまり軍事力によってではなく、

非軍事的手段で支配領域を拡大しようとする試みの一手である。

仮に中国の「閉鎖海」主義が東シナ海と南シナ海までまかり通れば、

この現場変更主義的ルールによって中国は世界で最も豊かな通商路2つを

支配下に納めることになる。

同時に、このような閉鎖海ルールが適用されれば、アメリカの軍艦は事実上、

アジアの海域の大部分から締め出されるだけではなく、

「世界の海洋の、およそ3分の1 (現在、世界の海洋に占めるEEZ)」で自由な国ができなくなる。

アメリカが国際法のこのような変更に猛反対しているのは、

こうした経済的・安全保障上の理由からである。

ジョン・セルデンが17世紀に唱えた「封鎖された海」に逆戻りするようなことが

あってはならない。

航行と上空通過の自由をめぐってすでに米中間で数々の軍事衝突が起きている。

これから、2001年に南シナ海の海南島付近での上空米中の軍用機が空中衝突した

「海南島事件」を始めとする実例をいくつか見てみよう。 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ページトップに戻る↑                           ページ一番下へ↓

【米中もし戦わば】025-02国連海洋法条約を無視し始めた中国


About kabumagariya