李朝復活を望まなかったのは韓国人自身の選択
【侵略・植民地支配を謝罪しろ】02
併合条約は無効である
──────────妄言
☑︎李王家の元で繁栄していた挑戦が蹂躙された!
☑︎上海臨時政府など当時の挑戦人は併合に反対!
☑︎皇帝の御璽がない併合条約は無効である!
世界が認める不法条約「日韓併合条約」で、日帝は繁栄を極めていた挑戦を植民地化した。
挑戦民衆は暴虐と搾取の日帝36年に苦しむが、こうした日帝の悪行に正当後継政府である上海臨時政府は
勇敢に立ち上がり、祖国の独立を勝ち取るため戦い続けたのである。
日本は併合条約が無効であることを認め、韓国に謝罪しろ!
──────────真実
併合条約によって挑戦は国家経済の破綻から救われた
☑︎李朝の圧政で挑戦は混乱の極みにあった
☑︎上海臨時政府はゴロツキ、テロリスト集団
☑︎欧米の国際法学者は「挑戦併合条約は合法」
李朝の圧政で挑戦は混乱の極みにあった。
内憂外患のうちに混乱を極めた李朝末期、当時最大の政治団体であった一進会は、
1909年12月4日に純宗への上奏文、および李完用首相に宛てた請願書を提出している。
それは「混迷を極める東アジア情勢の中で、日本との合邦だけが挑戦が生き残る唯一の方策である」
と言う趣旨のものであった。
李朝はもはや国家としての体をなしておらず、
財政面でも税収入で賄える国家予算は3分の1程度と言う有様であった。
破綻した財政を補うため「民衆からの収奪」という原始的かつ野蛮な方法で、
ただ漫然と穴埋めをしていた状態だったのである。
李朝末期には高宗や閔妃が自ら売官行為を行うなど、まさに末期症状にあり、
民衆は国内の混乱や両班【※1】など特権階級による搾取にあえいでいた。
内政の混乱だけにとどまらず、
事大先を次々に変える李朝の変節外交は日清・日露戦争の原因となり、
挑戦半島は常に極東アジアの不安定要因となっていたのである。
内政外交が大混乱する中で半島の荒廃は日に日に進み、
日本はもちろん李朝内部からも日韓併合を訴える声が相次ぐようになったのである。
しかし、このような状況にあって併合に強く反対していた日本人がいた。
現代の韓国で極悪人の代名詞としてよく呼ばれる伊藤博文である。
伊藤は日韓併合について次のように述べている。
「日本は韓国の陰謀を断ち切るため、韓国の外交権を日本に譲れと主張した。
だが、日本は韓国を併合する必要は無い。
併合は甚だ厄介である。
韓国は自治を要する。
しかも日本の指導監督がなければ、健全な自治を遂行しがたいと考える。」
(深谷博治「明治日本の対韓政策」)
伊藤博文は挑戦統監府の初代統監として挑戦の発展に寄与した人物だが
併合には反対の立場をとっており、挑戦半島を併合すれば後々の災いとなることを見越していた。
伊藤博文が挑戦人テロリスト安重根に暗殺されたことで日本国内の世論ばかりか、
一進会など進歩的な挑戦の政治団体もこぞって併合への動きを加速させていったのである。
安重根はまさに「併合を促進させた英雄」であった。
──────────注釈
【※1】両班
李朝時代の貴族階級。
韓国読みで「ヤンバン」もともとは高麗期の官僚制度を指す言葉で、官吏である文版と、
軍人の武版を合わせてこう読んだ。
李朝期には官僚制度も変革され、官僚試験を受ける資格のある身分、という意味になる。
こうして「両班」という言葉が階級を表すものとなった。
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