挑戦農民を救った日本の土地行政
日本は韓国併合後、挑戦半島の土地調査を行っている。
この調査事業を挑戦半島の土地強奪だったと主張する韓国人は多いが、
それは事実に反する主張である。
李朝時代における挑戦の土地はすべて国王の者、すなわち「公地公民」とされており、
国王以外の土地の所有は認められていなかった。
しかし李朝末期の腐敗横行によって綱紀は緩み、両班など1部の特権階級層には
私有地の所有が事実上認められるようになった。
また裕福な常民は私田収租権(個人に認められた収租権)得ていたが、
民衆の大半を占める農民のほとんどは土地を持つことができない農奴のような存在であった。
李朝末期の腐敗は土地管理制度にも影響及ぼしていた。
李朝によって耕作面積地として公式に記録されていた土地は272万町歩
(一町歩は約0.9ヘクタール)であったが、併合後に挑戦総督府が土地調査を行ったところ、
487万町歩と確定された。
倍近く増えた土地の正体は「隠田」と呼ばれるもので、
両班などが税逃れのために不正に耕作地としての記録を抹消した土地であった。
自国の土地面積さえ正確に把握できていなかった時点で、
李朝には行政統治能力が欠如していたと言わざるを得ないが、
このような「隠田」の一掃によって生まれた新しい土地を、
挑戦総督府は挑戦農民や日本からの移住民に分配したのである。
現在の韓国人たちは、この土地分配を「日帝による挑戦農民の小作農化」として非難しているが、
そもそも挑戦農民の大部分は農奴であったことを忘れてはいけない。
小作農であれば収穫に対してある程度の取り分が認められるが、
農奴であった李朝時代の挑戦農民は文字通り奴隷状態にあり、搾取の対象でしかなかった。
挑戦農民は日本によって「奴隷解放」されたのだ。
挑戦総督府が行った土地分配等の農政、農地改革によって、
挑戦半島の穀物生産高は併合から30年足らずで倍以上にその収穫高を伸ばしており
「春窮、麦嶺越え難し」【※2】と言われた李朝農民の惨状は日本によって劇的に改善されたのである。
↓
!!併合前の挑戦農民は奴隷そのものであった
──────────注釈
【※2】
「春窮、麦嶺越え難し」
挑戦半島に古くから伝わる諺。
挑戦農民は収穫の大半を年貢として徴収され、手元に残された農作物も春までに食いつくしてしまう。
次の収穫まで飢えに苦しむ期間を春窮期と呼び、これを越えられず
餓死する農民も多かった。
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