マリキュリーの子供時代のポーランドはロシアの支配下にあった。
支配下の民に知恵はいらない。
大学が閉鎖され、教授だった父は失職した。
勉強好きの彼女はそれでパリに出てピエールキュリーに出会い、2つのノーベル賞を受賞した。
2つ目の新元素の発見に対してで、その1つに彼女は祖国の名にちなんでポロニウムと命名した。
それから30年もたたないうちに祖国がヒトラーに占領されてしまう。
ドイツの支配はまだロシアの方がマシと思えるほど過酷で、教育は小学校まで。
後がなかった。
教授は医師など知識階級は失職どころか命まで奪われた。
小学校では「500まで数えられ、自分の名前をかければいい(ヒムラー)だけの教育だった。
人々はゲシュタポの監視下に置かれ、彼らは気ままに市民を殺した。
ヒトラーはスラブ系のポーランド人をアジアの植民地人ほどにしか見ていなかった。
そういえばビルマをとった英国もまず知識人と有力者を処刑し、次に紙を没収した。
紙がないと、なるほど教育はできない。
仏領インドシナも教育を制限し、リセ(高校)は一校だけしかなかった。
代わりに徴税事務所を山と作って塩、酒、タバコに課税し、収益を上げた。
ゲシュタポに似たシュレテを置いてベトナム人を監視した。
勝手に村から出るのも禁じられた。
戒厳令下と同じだった。
それでも反仏デモをやると、仏印政府は躊躇らず機銃掃射を浴びせた。
死ねば葬式税が取れた。
日本が敗れて間もない頃。
蒋介石の国民政府は米国に見捨てられ、中共に追われて台湾に逃げ込んだ。
蒋介石がそこで最初にやったのは、欧米がその植民地でやったのと同じ、
塩と酒とタバコへの課税だった。
蒋介石はヒトラーがポーランドであったと同じ知識人の組織的殺害もやった2.28事件の発端は
蒋介石の官警がタバコ売りの老女から力ずくでタバコを取り上げたことからだった。
彼らは支那人そのものだった。
今の北京政府と同じに脅しと暴力で民を搾取し、汚職し、強姦していた。
市民がその横暴を糾弾すると、蒋介石はそれを口実にして知識人の検束と処刑を全土で
で展開させた。
支那人官警は支那人の流儀でそれをやった。
捕まえると両の掌からふくらはぎに穴を開けて針金を通した。
何人も数珠つなぎにして基隆の埠頭に連行し海に突き落とした。
ほとんどが溺死した。
犠牲者は約三万人といわれるが、近代史家黄文雄は「地方の有力者の粛清を併せれば十万人に上る」と言う。
蒋介石はまた高等教育も禁じて台北大学を閉鎖した。
日本統治時代は全土で12,000人だった警官を80,000人に増やし、
その上に戒厳令を敷いて市民の行動を監視した。
蒋介石は台湾をして中華民国と名乗ったが、彼がここまでやった事は
ヒトラーもどきの占領地統治か植民地統治でしかなかった。
蒋介石の若手側近は米国流学組で占められている。
台湾の扱いは多分、米国が恐怖で統治した植民地フィリピンがモデルだったのだろう。
戒厳令は2.28事件から息子、蒋経国の時代まで実に40年続いた。
あきれた統治だが、その戒厳令下の台湾に産経新聞会長の鹿内信隆が足しげく通い、
蒋介石を礼讃した挙句に「蒋介石秘録」まで出版した。
同書にはまるで南京大虐殺が真実だったかのように書かれている。
反共の雄としての蒋介石評価だろうが、大虐殺に続く戒厳令下で呻く台湾の人々は
こんな日本人の、それも新聞社代表の蒋介石礼賛をどう聞いただろう。
「国民は政権を選ぶ権利がある」と大西洋憲章は謳った。
台湾もポーランドも長い間、そんな美辞から見放されてきた。
そして今、香港からも同じ呻きが聞こえる。
産経は鹿内を追い出した。
紙面には香港の今が活写されるが、例えば朝日新聞にはそれがない。
鹿内の亡霊でもいるいるのかしらん。
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