1960年代、中国がベトナム戦争でも重要な役割を果たすことになる。
戦況を変えるのに貢献したのは、中国が大量に送り込んだトラックや戦車や戦闘機や
迫撃砲だけではなかった。
15万人の中国兵もハノイとハイフォンの空に非常に効果的な防衛の傘を提供した。
中国では、従来型の高射砲と地対空ミサイルの両方を使って1000機以上もの
アメリカの航空機とそのパイロットを撃墜した。
しかし、究極的には、中国が北ベトナムに果たした最大の貢献は
アメリカ軍に対する抑止効果だった。
アメリカにとって勝利への最短ルートは、地上軍が非武装地帯を越えて北ベトナムに
進軍してハノイを奪取し、北ベトナム政府を打倒することだった。
だが、アメリカの政治指導者らは、「もしアメリカが非武装地帯を突破すれば、
朝鮮戦争の時のように何百万と言う中国兵が大挙して国境を越え、
ベトナムに侵入してくるだろう」と言う恐怖に取り付かれていた。
結局、10万人以上のアメリカ兵がベトナム戦争で死亡または重傷を負い、
アメリカは撤退を余儀なくされた。
その主な原因は、アメリカの勝利に不可決な戦略を中国が封じたことだった。
中国から見れば、これは「上兵は謀を伐つ(最高の戦い方は、敵の策謀を見破って
それを封じることだ)と言う孫子の兵法をそのまま実行に移した教科書的事例だった。
激動の1960年代、国家主義的な色彩を強める中国は、
「帝政ロシアが屈辱の100年間に中国の領土を不当に併合した」と声高に言い募るようになった。
1960年、この国家主義の高まりから、中国はついに旧同盟国に、2度目の奇襲攻撃に突入した。
その相手国はソビエト連邦だった。
今回の領土問題の中心は、川の小さな中洲2つと「世界の屋根」パミール高原の
側面沿いのおよそ52,000平方キロメートルの領土だった。
国境紛争は、その小さな島をめぐるささいな領土紛争が、
国家主義的熱狂によっていかにたやすく核戦争の瀬戸際までエスカレートし得るかを
示した好例である。
実際、それはもう少しで中国に原爆を投下するところだった。
現在中国が東シナ海南シナ海の島々に行っている領有権の主張がこれほど不気味なほど
よく似ていることを考えると、これは実に教訓的な意味合いを含んでいる。
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