日本はハングルを弾圧したのではなく、普及させた
朝鮮で初めて一般民衆に学校教育を行った
李朝期、学校と呼べるような存在は、郷校【※3】や書院【※4】書道【※5】といった
特権階級の子弟が通うものしかなかった。
これらの学校は、漢字の読み書きや四書五経、朱子学などを学ぶ場であり、
彼らが蔑んだ「無職の文字」「愚民文字」ハングルが教えられる事はなかった。
そして李朝末期にはこの書院等に政争に敗れたで両班など、無頼の輩が集まるようになり、
ほとんど犯罪者の巣窟と化していた。
1871年に大院君は「書院閉鎖令」を出し、書院の一掃を断行している。
全国13道に650校を超えていた書院を、一道に二校以下とし、それ以外の書院を順次閉鎖していった。
これによって書院はその後47校まで激減している。
1910年の併合時、朝鮮半島には普通学校(日本の小学校に相当) は100校ほどしかなく、
日本はそれを1942年の時点で4945校まで増やしている。
朝鮮総督府は朝鮮半島における初等教育の普及に力を注ぎ、
1920年に「3面1校増設計画」(面とは朝鮮の行政区画単位、
当時の朝鮮半島には約2500のの面が存在していた)を打ち出し、1929年には「1面1校増設計画」へ以降、
さらに1937年には「初等教育拡充倍加計画」打ち出して教育の拡充を推し進めていた
普通学校以外の各種学校の教育インフラとしても、1944年5月末の時点で中学校75校、
高等女学校75校、実業学校133校、実業補習学校145校、師範学校16校、
専門学校24校、大学予科1校、大学(京城帝国大学)1校を設置しており
【※6】、総計470校を数えるに至っている。
特に帝国大学は日本にも7校(帝国大学全体としては台北帝大を含めて9校)しかなく、
京城帝大(現在のソウル大学)は1924年に6番目の帝国大学として設置されている設立されている。
いかに日本が朝鮮半島の教育普及に力を注いでいたか理解できるだろう。
──────────注釈
【※3】郷校
国立の地方教育機関。官僚養成予備校のようなもので、ここから成均館(李朝の最高教育機関)に入学し、
さらに科挙をクリアすることで、政界へと進むことができた。
【※4】書院
私立の儒教教育機関。ここに入れるのは両班のみで、科挙の準備や朱子学の講義が行われた。
李朝中期には有象無象の書院が乱立し、李朝末期には大きな社会問題となるまでに至った。
【※5】書堂
書院と同様、私立の儒教教育機関。日本で言うところの寺子屋に相当する、初等教育の場であった。
【※6】戦前期の学制
この時期の学校教育システムでは尋常小学校(6年制、義務教育。4年制のところもあり)で初等教育受けた後、
高等小学校(2年生、義務ではない)に進んでから就職するか、中学校(5年生の普通科、男子のみ)、
高等女学校(4年生、女子のみ)工業、商業などの実業学校(5年生、専門的技術を習得)
実業補習学校(3年生、技術習得でなく職業訓練行う)といった中等教育へ進む。
さらに高等教育として師範学校(7年制、女子は6年、小中学校の教員資格を得る)、
専門学校(3年制、実業学校以上の専門教育を行う)、大学予科(2年制、大学付属の短期教育機関)に進学。
その上に大学(3年制)が位置していた。
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