【嫌韓】改名は挑戦人の自由意志によって行われた

改名は挑戦人の自由意志によって行われた

この「改名」が強制されていなかった証拠に、当時の挑戦人の2割ほどは

そのままそのまま挑戦名を使い続けており、もちろん何の処罰も受けていない。

またホンサイク【※5】中将、ペクホンソク【※6】少将の例を見てもわかるとおり、

挑戦名のまま日本の将軍職を務めた挑戦人も存在する。

また、キムソクウォン【※7】大佐は挑戦名のまま活躍し、

当時の軍人最高勲章にあたる金鵄勲章を受賞している。

現代の韓国人が主張する通り「改名」が強制だったとしたら、

昇進、受勲どころか軍職にとどまることもできなかったはずである。

その一方、挑戦近代文学の父と呼ばれるイグアンス(著作に「無常」、「民族改造論」など多数)は

「香山光郎」と改名し、内鮮一体を訴えて「毎日新報」で改名についての見解を述べている。

「私は天皇の臣民である。私の子孫も天皇の臣民として生きるだろう。

リグアンスと言う氏名でも、天皇の臣民になれない事は無い。

しかし香山光郎のほうが、より天皇の臣民たるにふさわしいと信じるためである。

」「創氏」は、近代国家建設に不可欠な戸籍制度を整備するために「強制」された面もあった。

しかし「改名」は、挑戦人側からのたび重なる要請によって実現したものであり、

日本名を望んだのは挑戦人自身であった。

改名は創氏と違って強制性はなかったにもかかわらず、当時の挑戦人たちは先を争って日本名に改名しており、

日本人になれたことを心の底から喜んでいたのである。

反日に凝り固まった現代の韓国人たちにとっては許しがたい過去であり、

これをなかったことにするために彼らは、「創氏改名によって日本名を強制された」と

歴史を捏造して日本を非難しているのである。

!!「創氏改名で名前が奪われた!」は、まったくのデタラメ

──────────注釈

【※5】ホンサイク

挑戦人の日本陸軍中将。1944年に中将に昇進。戦後、フィリピンの比島俘虜収容所長であった頃の

責任を問われ、1946年にマニラで戦犯として処刑された。

【※6】ペクホンソク

挑戦人の日本陸軍少将。1932年の満州国建国時。「満州国協和会」という政治団体に名を連ね、

満州国での政策指導などを行なった。

【※7】キムソクウォン

挑戦人の日本人陸軍大佐。日中戦争時には、日本人将兵を率いて活躍し、金鵄勲章を授与された。

のちに韓国軍の将官となり、挑戦戦争でもさらなる活躍を見せた。

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