【嫌韓】【侵略、植民地支配を謝罪しろ】 06

【侵略、植民地支配を謝罪しろ】 06

挑戦半島から資源を収奪した。

──────────妄言

強欲な日帝は挑戦半島から資源を収奪した!

☑︎日帝は森林を伐採して禿山だらけにした!

☑︎米を奪い、挑戦半島を飢餓地獄に陥れた!

☑︎挑戦半島からあらゆる資源を奪い尽くした!

資源に乏しい島国である日帝は、豊かな挑戦半島に目をつけ、侵略して植民地化したのである。

森林資源や食料など、ありとあらゆる資源が日帝によって奪い去られていった。

そのため山々は禿山となり、米を奪われた民衆は飢餓地獄に苦しむことになった。

多くの挑戦人が日帝の資源強奪で命を落としていったのだ!

──────────真実

資源などなかった挑戦に、日本が緑の緑の贈り物をした。

☑︎禿山だらけだった挑戦に緑を送った日本

☑︎総督府の農地改革で米収穫高が劇的に増加

☑︎そもそも収奪する資源が存在しない挑戦半島

禿山だらけだった挑戦に緑を贈った日本

19世紀末に挑戦を旅行したロシア人で、ぺ・エム・ジェロトケビッチの探検記「挑戦旅行記」【※1】には、

「どこまでいっても禿山と赤土ばかりで、草も全て燃料のために刈り取られている」など、

併合前の挑戦半島の風景が細かく描写されている。

イザベラ・バードの「挑戦紀行」にも同様に荒れ果てた挑戦半島の様子が紹介されている。

韓国人は「日帝時代の乱伐によって緑豊かだった国土が荒廃した」と主張しているが、

実際には併合前から挑戦半島は禿山だらけであったことがわかる。

李朝時代の挑戦には焼畑農業が多数存在した。

定住しない焼畑農民は、山林を焼き払い一定期間耕作すると他へ移ってしまう。

さらに冬季には燃料として大量の薪必要とされ、乱伐が繰り返されてきた。

乱伐された山に豪雨が降れば、表土は流出し、禿山となってしまうのは当たり前である。

そもそも挑戦半島は花崗岩大地の山岳国家であり、平地が少なく緑が育ちにくい。

であればこそ、本来なら緑を守るための文化が育たなければならないのだが、

常に目先の利益しか考えない挑戦民族の民族性からか、日本のような森の文化(森そのものを神域とし、

過度の伐採を慎み、緑を育てる文化)が生まれる事はなかった。

挑戦総督府は禿山だらけの挑戦半島の惨状を改善するべく、

併合翌年の1911年には「山林令」を公布し、緑化事業計画をスタートさせている。

森林は緑のダムである。

森林がなくなれば、降れば洪水、降らねば干ばつがとなって、農業生産は崩壊する。

治水の前に治山が必要というのが、寺内正毅【※2】(初代総督)の方針であった。

この方針に基づき、挑戦総督府は1911年から30年間で5億9000万本の植林を行った。

当時の挑戦全人口の一人当たり約25本と言う膨大な数である。

さらに造林事業分を加えれば、併合期間中に日本が挑戦半島で10億本以上もの植林事業を行っていたのだ。

しかし、戦争終結後に日本人が挑戦半島から引き上げるると、

挑戦人たちは再び無計画な伐採を繰り広げ、半島を禿山だらけにして、

日本からの「緑の贈り物」を台無しにしてしまったのだ。

それどころか、なんとその責任を日本になすりつけ、

「日帝が森林資源を収奪した!」などと主張しているのである。

ここまで恩知らずな民族は、世界的に見ても珍しいのではないだろうか?

現在でも韓国と北挑戦では禿山ばかりが目立つが、それらは「植林」の概念を持たない

韓国、挑戦人の乱伐の結果でしかない。

日本が資源を収奪したなど全くの虚偽捏造である。

!!日本は挑戦半島に10億本の植林を行った

──────────注釈

【※1】挑戦旅行記

平凡社(東洋文庫 547)挑戦踏査報告5編をおさめる。

社会構成、重大な政治事件から、過酷な庶民の生活や農業事情にいたるまで、

当時の悲惨な様子がいきいきと描き出される。

絶版。

【※2】寺内正毅

日本の陸軍軍人、政治家。

1910年挑戦総督府が設置されると、陸相を辞任して初代総督に就任。

後に第19代内閣総理大臣となる。

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