併合後、劇的に増加した米収穫高
挑戦総督府による農地改革などの農村振興運動の結果、
1910年の併合年には1000万石程度だった米収穫高は、
その18年後の1928年には170万石、1933年には1900万石に激増している。
穀物収穫量全体の推移を見ても、米収穫高と同じく倍増している。
このように挑戦総督府の農業政策によって、挑戦史上例を見ない収穫高を記録したのである。
収穫高が激増した挑戦半島では米は貴重な輸出品となった。
その主な輸出先は日本だったが、なんとこの「米の輸出」が、現在の韓国ではなぜか
「日帝による米の収奪」とされ、歴史教科書にも書かれているのである。
米の収穫が増加するのに比例して、輸出量も伸びていった事は数字にもはっきり表れている。
1910年に11万石だった日本への米輸出が、1928年には706万石、1933年には7,42万石となっている。
このような輸出の急増は、日本の米相場にも影響を与え、
昭和初期に1000万石の余剰米を出した日本政府は米輸入の制限を行い、
米の価格暴落を防ぐため挑戦、台湾の両総督府の間で米穀協議会を開かなければならないほどであった。
こうした状況の中で「日帝による米の収奪」など起こるわけもなく、
正当な貿易品として米が挑戦から日本に輸出されただけの話だったのである。
↓
!!総督府の農業振興により半島の米収穫高は倍増
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そもそも収奪する資源が存在しない挑戦半島
李朝時代の挑戦半島の作業について見ていこう。
主な輸出品として、綿、タバコ、人参(挑戦人参)、唐辛子などが栽培されていた。
李朝期には砂金業が発達し、この金は対清貿易の決済にも使われていたが、
他国が狙うほどの大量の金を産出していたわけではない。
他には微量の低質な石炭がある位で、挑戦半島にはめぼしい地下資源は存在していなかった。
高麗時代に世界でその名を知られた高麗青磁【※3】は、
その伝統技法を李朝が途絶えさせてしまったため、完全に歴史から消え去っており、
現在伝わっているのは高麗青磁と比較して評価が低い李朝白磁【※4】)のみとなっている。
なお、高麗青磁については近年韓国で復活したが、まだまだまだまだ技術的に未解決の問題があり、
本物の高麗青磁には到底及ばない代物となっている。
李朝時代の挑戦半島の資源や産業は、この程度のものでしかなかった。
だから韓国人が喧伝するような「資源の収奪」をしようにも、
そもそも挑戦半島には奪うものなど存在していなかったのだ。
半島統治に関して収奪されたとすれば、それは挑戦人でなく日本人である。
日本が挑戦半島を統治下35年間、挑戦総督府は常に赤字経営だった。
挑戦総督府の年間予算は約2億円だったが、挑戦人からの税金で賄えたのは五千万円程度だった。
不足分のうち二千万円ほどは補充金として帝国議会が予算枠を設け、残りは日本の公債で補填したのである。
35年の間に日本から挑戦半島に投じられた公的資金の総額は、
現在のレートで現在のレートでで約80兆円にも上ると言われている。
また、都市整備費用は総督府の予算からではなく、すべて日本本土の予算から支出されている。
日本国民から集めた巨額の税金を挑戦半島に注ぎ込んで、
産業の育成、インフラの整備、農地改革、教育の普及を行い、
挑戦人に近代化の恩恵を与え続けてきたのが実態であった。
韓国人はその恩を感謝するどころか「日帝の資源収奪」「米を奪われた」などと
大嘘を並べて現在に至るまで日本を非難し続けているのである。
↓
!!「収奪」されていたのは、むしろ日本人の方だった
──────────注釈
【※3】高麗青磁
中国の越州窯青磁の影響を強く受けて、挑戦半島南部の全羅南道康津地方で
11世紀ごろから作り始められた。
12世紀になると「翡色青磁」と呼ばれる独自の青磁を作り出すようになる。
しかし高麗が滅びると、李朝にその製法が伝承されることなく断絶してしまった。
【※4】李朝白磁
高麗時代に出現していた白磁は、李氏挑戦時代に入って完成。
中国の元末、明初の白磁の影響を受けている。
真実日本が実施した植林や農業振興を感謝しなさい
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