陸軍大将よりも高収入な「性奴隷」
慰安婦たちは本当に性奴隷のような存在だったのか、参考となる事例がある。
文玉珠【※3】という自称元「従軍慰安婦」が起こした貯金の返還請求裁判だ。
戦時中にビルマ(ミャンマー)で慰安婦として働いていた時(1943 ~1945年)、
売春行で貯めた26,145円を郵便貯金にしていたが、戦後の混乱期に通帳を紛失してしまったと言う。
その変換を求めて1992年に裁判を起こしたのである。
ここで注目すべきはその3年足らずでため込んだ「26,140円」と言う金額である。
これを現在のレートに換算すると、なんと一億円近くにもなるのだ。
ちなみに当時の陸軍大将の年収は約6600円である。
「日本軍に強制連行された性奴隷」とやらは、その日本軍のトップよりも年収が上だったのである。
終戦直後の戦地売春婦たちの姿を知る資料として、
北ビルマのミチナ慰安所を調査した米軍のレポートがある。
それを見ると、「ブローカー(及び経営主)は= 300 ~ 1000円の前借金を親に支払い、
女性たちはその債務を慰安所での収入で返還している。
経営者との収入配分比率は40 ~60%、女性たちの稼ぎは月に1,000 ~2000円、
兵士の月給は15円~25円。
慰安婦たちは通常、個室のある2階建ての大規模家屋に宿泊して営業を行った」とある。
慰安婦たちはかなりの高収入であり、文玉珠だけが特別稼ぎが良かったわけではないことがわかる。
さらに「彼女たちの暮らしぶりは、他の場所と比べれば贅沢とも言えるほどであった。
慰安婦は接客を断る権利を認められていた」
「負債の弁済を終えた何人かの慰安婦は挑戦に帰ることを許された」といった記述も見られる。
また、小野田寛郎【※4】が「正論」 (サンケイ新聞社) 2005年1月号で発表した手記
「私が見た従軍慰安婦の正体」でも、「当時、漢口周辺には約33万人と言う兵力が駐屯していたが、
ある理由で全軍の兵士の金銭出納帳を調べた。
3分の1が飲食費、3分の1が郵便貯金、3分の1が「慰安所」への支出だった。
(中略)ちなみに当時の給料は兵士は1ヵ月平均13円程で、その3分の1を約4円として計算すると
33万人で総額約132万円になる。」と、米軍のレポートとほぼ同じ内容が書かれている。
秦郁彦著「慰安婦と戦場の性」(新潮選書)によれば、玉割り(売春宿と売春婦の収入配分率)が、
内地では高くても40%だった時期に、戦地では50%が当たり前だった。
沖縄などでは70%にまで跳ね上がっていたと言う。
ハイリスク、ハイリターンをとって、戦地での売春を選んだ慰安婦が数多くいたのである。
日本軍に対して厳しい目を向けていた米のレポートや、
実際に慰安婦たちを見てきた小野田寛郎の証言、秦郁彦のような研究者たちの調査を読む限り、
性奴隷とされた慰安婦の姿などどこにも存在した様子はなく、
プロ意識を備えた「売春婦」の姿がそこには見えてくるのである。
↓
!!「従軍慰安婦」の実態は、単なる売春婦に他ならない
真実挑戦人慰安婦の「200,000人」も「性奴隷」も嘘
──────────注釈
【※3】文玉珠
金学順に続いて名乗り出たふたりめの公式「従軍慰安婦」。
陸軍大将より稼いだ売れっ子売春婦として有名。
従軍慰安婦としても名乗り出た時点では「挑戦人ブローカーに売り飛ばされた」と証言したいたが、
その後の裁判で「軍服を着た男に無理矢理慰安所へ連れていかれた」と証言を変更。
貯金返還請求裁判では「すでに口座は失効している」として敗訴した。
1997年に死去。
【※4】小野田寛郎
戦後も南方でゲリラ戦を続けた、いわゆる「日本兵の生き残り」の1人、
陸軍中野学校で訓練を受けた後、1944年にフィリピンのルバング島へ派遣される。
1974年までの30年間、終戦を知らずジャングルの奥地に潜伏していた。
帰国後、ブラジルに移住して牧場を経営。
日本では「小野田自然塾」も主宰する。
2005年11月藍綬褒章を受賞した。
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【嫌韓】陸軍大将よりも高収入な「性奴隷」
Posted in: 嫌韓
– Posted on 2019/01/23Posted in: 嫌韓
– Posted on 2019/01/23
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