韓国人は、なぜ借金による生活に抵抗感が少ないのか。
これについて、李朝末期に朝鮮で生活したヨーロッパ人のキリスト教宣教師が書き残した書物がある。
シャルル、ダレ著「朝鮮事情、朝鮮教会史序論」(日本語版1979年/平凡社)である。
それによると、次のように記している。
「彼らは一般に欲深いと同時に、無駄遣いも多く、金を持てば余すところなく使ってしまう。
金さえあれば、豪華な暮らしをすること、友人をもてなすこと、
自己の気まぐれを満たすことだけを考えている。
そして再び赤貧に見ようとしても、それほど不平も言わずに甘受し、
運命の歯車が回り回ってまた良き日がやってくるのを待っている」朝鮮李朝520年は、
儒教を国教としていたから、中国の伝統思想に強い影響受けている。
韓国にも、中国独特の「メンツ」と言う思考方式がうかがえるのだ。
普段は貧しい生活を送っているものでも、一度僥倖に恵まれれば、
豪華な暮らしや友人をもてなすからだ。
日本人の石田梅岩(1685から1744年)の思想とはかけ離れていることに気づくであろう。
中国人の場合、「陰陽5行説」が深く支配している。
世の中は絶えず循環しているから、貧しくてもやがては僥倖に出会い、大金持ちになる。
大望を抱けば、皇帝にもなれると言う「ケタ外れ」の夢を正当化するのだ。
毛沢東もこの「陰陽5行説」を信じたのであろう。
習近平も同じ夢を見ているのだ。
習氏の場合は、世界の「帝王」を狙っている。
「陰陽5行説」は、儒教社会と表裏一体の関係にある。
韓国人が、「陰陽5行説」に立っているから、
赤貧生活を送っていてもひたすら「チャンス」到来を待っているに違いない。
自らの努力でこつこつと夢の実現に向けて努力する。
こういう日本人流の勤勉スタイルにはならないのだ。
韓国でも一攫千金を狙うタイプが普通の生き方に違いない。
「金を稼ぐのも早いが、使ってしまうのはさらに早い。
人々は、誰かの訴訟を片付けてやったり、ニンジンの根と小さな金塊とか水晶の鉱脈とか言った
なにがしかのものを発見したりすれば、数日間はウキウキし、
「ままよ、なんとでもなる!明日のことは明日になればなんとかなるさ」といった気持ちになる。
そうして、数多くの人々が、常に街道に出てきては好機を願っている。
ここになくても、あそこでは出くわすかもしれない。
何か宝物でも見つかるかもしれない。
まだ開発されてない何か高価な資源でも発見できるかもしれない。
何か金を稼ぐ新しい手段を発明できるかもしれない、などと期待している」
「陰陽5行説」に立てば、人生これほど気楽に生きられる話は無い。
「自己反省」や「自己努力」とは無縁の「能天気」な生き方が可能である。
ひたすらチャンスを待てば良いのだ。
ここには、地道な努力は必要ない。
稼いだものはパッと使ってしまう。
明日は明日の風が吹く。
稼いだものを蓄えておく。
それを元手にあたら新たな仕事に着手する。
もともと、そういうアイディアは存在しなかった。
ある意味で、刹那的な行動様式である。
その背景には背景に「両班」による過酷な搾取関係が存在したことも事実。
蓄えたものは、すべて支配階級に取り上げられてしまう。
そういう世界では、明日を信じて努力することが無意味になろう。
蓄えがなければ、新たに搾取されることもなかったからだ。
こう考えると、日常社会は明日なき絶望の社会でもあったのであろう。
韓国社会は今なお、刹那的な消費行動を続けている。
その背景には、日常による過酷な搾取をもたらした無気力さが災いしているに違いない。
過去520年余にわたる両班への「恨み」は、形を変えて現代にも引き継がれている。
保革の政治的な対立は、その典型的なものに違いない。
また「反日」の裏にも「両班」への恨みと重なるものを感じ取っているのだろう。
日韓併合下であった現実が、両班支配と同室と想像しているのである。
これは明らかに歴史事実と異なり間違えている。
「両班」を追放したのは日韓併合以降である。
この事実を韓国はなぜか消し去っている。
両班と日本統治は、質的に最も異なっている。
両班は無気力搾取一辺倒で進歩を阻害した。
日本の統治は、積極的近代的平等観の自立など、
儒教国家李朝の行政を180度変革したのだ。
現代韓国は、この歴史的事実を全て歪曲している。
李朝が行ったように、中国政治を神聖化する一方で、日本を排斥すると言うことになっている。
こうした合理性を排除する動きは、韓国金融システムの脆弱性にもつながっている。
金融システムは本来、合理性を最大限に発揮すべき役割を持っている。
無差別、市場性と言う役割である。
韓国の金融システムは世界でも最も脆弱な部類に入っている。
李朝以来の抱える無気力非合理的時代性と言う「イノベーション能力」と無縁な機能に支配されているからだろう。
2014年の世界経済フォーラム(WEF)による、「グローバル競争力報告書」を見ると、
韓国は金融市場の成熟度部門において81位に沈んだ。
ちなみに、韓国はガーナ(52位)ボツワナ(53位)コロンビア(63位)カンボジア(65位)
などより順位が低かった。
製造業を含む韓国経済は、世界14位の経済大国にまで成長したが、
金融ランキングだけ見れば経済支援を要請する側のレベルにとどまっている。
「韓国銀行業の競争力が低い」。
こういう評価を下された理由は、前述の私の分析では、
「イノベーション能力」欠如が主因である。
「イノベーション論」は、ドイツ人経済学者ジョセフシュンペーター流に分析すれば、
韓国銀行業が「イノベーション」機能を果たしていない結果である。
韓国銀行業が世界81位とは、「イノベーション能力」がゼロ同然に低いことの表れだ。
シュンペーターの主張する「銀行家」の役割とは、実に深い意味を持っている。
すなわち、「単に「購買力」と言う商品の仲介承認であるだけでなく、
「購買力」の生産者でもある」(ジョセフシュンペーター「経済発展の理論」1926年」のだ。
今からだと90年前に、核心をついた理論を展開した。
これは、時代を超えた真実であろう。
韓国社会が、李朝以来の抱える無気力、非合理的、時代性と言う「イノベーション能力」と
無縁である阻害要因が、韓国金融システムに巣食っている結果と見る。
金融システムが惰眠を貪り、単なる「利ざや稼ぎ」の高利貸し的な地位に出していてはならないのだ。
銀行家の果たすべき究極の仕事は、「イノベーション能力」の発揮である。
預金者から購買力=マネーを借り手に対して貸し出し仲介するだけでない。
マネーを作り出す=信用創造と言う仕事を果たさなければ、経済は発展しない。
信用創造とは、銀行家の責任で預金の何倍かを貸し出すこと。
万一、貸倒が発生すれば銀行家の責任となる。
そういうリスクを負担していくのが、経済全体の「イノベーション」につながる。
この信用創造能力が、韓国の銀行家に不足しているのではないか。
そういう強い疑問が湧く。
だから、世界の銀行業で韓国は81位に落ち込んでいるのだ。
韓国の「反日」に潜む非合理性は、日韓併合時代を全て指定すると言うアナクロニズムから出発している。
どの国でも消し去りたい過去を持つ。
それと対峙し、それを克服していくところから進歩発展が始まる。
韓国は、なぜ日韓併合に組み込まれたのか。
その理由について「日本帝国主義」の侵略の一言で片付け憎悪している。
私は、これが間違いだと見る。
100年前の韓国が、日韓併合に傾いた政治的な背景を再検討すべき時期である。
「反日」のスローガンで、日本糾弾していればことが済むのではない。
自らが精神的な血を流して、「民族の悲劇」と向き合う時期であろう。
それなくして、韓国の政治経済における真の独立はありえない。
韓国にとって不都合な事実ともしっかり向き合うことである。
日本に謝罪を求めるだけでは独立を達成できないのだ。
日韓併合となった背景には、国論の分裂と党派の対立があったことも事実である。
そして、日韓併合を導いた人々が目指したのは「日本のような国づくり」であったはずである。
それは、両班が支配した中国的な社会でなく、西洋に開かれた社会を目指したものだ。
現在の韓国は、一度は忌避した「中国化」を再び促進すると言う矛盾に陥っている。
韓国金融システムが、世界81位と惨憺たる事態にある理由は、「合理性」に背を向けた社会風潮にある。
その意味で、100年前に直面した課題は、現在も何ら解決されていないのだ。
その病巣が、金融システムに現れているとみたほうが良いだろう。
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