この章は本書で唯一の歴史編だ。
本書を読み進める前に、頭に入れておいてもらいたいことを手短にまとめた。
韓国人はしばしば「わが国は儒教の国だ」と言う。
もちろん宗教としてではなく、道徳律としての儒教のことだ。
日本で出版されている韓国入門書や観光ガイドも「儒教の国」と述べている。
私は、朝鮮半島の歴史の中で変容した儒教の1部が、今日の韓国人の価値観や
行動原理の中に色濃く残っていると思っているが、今日の韓国を「儒教の国」とは考えない。
例えば「孝」は儒教の基本的な教えの1つだ。
「身体髪膚、これを父母に受く。
敢えて毀傷せざるは、孝の始め」と孔子は説いている。
それなのに、首都ソウルに住む、女性のほぼ半数は「整形済」だ。
これは、朝鮮日報(09.12.22)が応じたところだ。
つまりあえて毀傷している。
何が「儒教の国」であるものか。
では韓国に「親孝行」と言う価値観は無いのか。
そんなことわない。
日本人にはどうにも信じられない人物がいた。
李麟栄両班(貴族)だ。
日韓併合(1910年)の3年前、大韓帝国の軍隊が、日本の指導により解散させられた。
軍隊といっても、国防能力が備わっていたわけではない。
李王朝の用心棒集団のような存在で、総数も6000人ほどだった。
彼らは武装解除された上に職を失ったわけで、当然のことながら不満を高めた。
李麟栄はこの機を見て、朝鮮全土に「日本打倒」を呼びかける檄文を飛ばした。
たちまちソウル北方に続々と元兵士が集まり、李麟栄が総大将に選ばれた。
ここまではスムーズな流れだったが、出陣を前に李麟栄のもとに父の訃報が届く。
そこから日本人には信じられない「儒教徒」の行動が始まる。
イオンは父の訃報に接するや、葬儀のために実家に戻ってしまう。
そして戻ってこない。
使いが行くと、李麟栄は言う。
「この世の中で最も大切な事は親孝行である。
親に対して不幸であっては、国に対しても不忠になる。
府中者には国を救う資格がない」私には詭弁に思えるが、李麟栄はこう言って、
3年間の喪に服してしまうのだ。
論語にこうある。
「子曰く、父在せば、その志を見る。
父没すればその行いを見る。
3年間、父の道を改むることなければ、孝と謂うべし」つまり、父の生存中は、
父の志を学び、父が亡くなってからは、その行跡を振り返る。
3年間、父の慣行を守れば、親孝行と言える。
と言う孔子の教えに従ったのだ。
この史実を私に教えてくれた韓国の老インテリは、李麟栄のことを
「どこまでも儒教に忠実に生きた心高い英雄」と評していたが、私は全く別の考えを持つ。
「対日挙兵」といっても、まともな武器があったわけではない。
実は「仕事よこせデモ」の類だったのではないかと思うが、「仕事をよこせデモ」だとしても、
それは公の課題に属する。
それに対して、父の葬儀、服喪は私事に他ならない。
まして李麟栄は首謀者であり、総大将と言う職責がある。
こんな場合に私ごとの方を放り出さなければ、「民族の裏切り者」として末代までの恥になる。
と。
しかし、歴史の中で確立された1民族の、この種の価値観とは、
他の民族が「良い」とか「悪い」とか判断できるものではない。
ただ、「良い」「悪い」の判断と離れて、こうは言えるだろう。
日本人は、大体のところ「滅私奉公」と言う価値観に染まっている。
「最近の若者は…」とする指摘も出ようが、私は最近の若者も充分に染まっていると思う。
染まり方が薄いのは、むしろ「団塊の世代」ではあるまいか。
「滅私奉公」とは「戦国策」にある言葉と言うが、その「公」を、
日本では幕藩体制下の「藩」や「店」に見て見立てていたのだろう。
日本人の滅私奉公は、限りなく「滅私奉業」として働く。
これに対して、李麟栄が体現してみせた価値は「滅私奉公」と全くの逆、言うならば「滅私奉私」だ。
韓国人にとって最も大事なものは、自分自身と家族、そして先祖と1族だ。
これは儒教に基づく。
韓国人にとって企業とは、自分が所有するものでない限り、自分が勤務する企業であっても
「他人の私物」に他ならない。
実際のところ、韓国では中小零細企業はもとより、大企業ですら、ほとんどがオーナー経営だ。
みんなワンマン型オーナーだ。
自分が勤める企業であっても「オーナーの私物」でしかない。
そんな存在は「公」よりはるかに価値が低い。
その上、日本のような「企業一家」の精神も「終身雇用」の伝統もない。
「復讐心」はやたらと強いが、「報恩」と呼ぶべき思想に基づく行動にはめったにお目にかからない。
こうした点を踏まえて、「滅私奉公」と「滅私奉私」を比べたら、産業社会の発展に、
より寄与するのは「滅私奉公」の方であることは間違いない。
私はかつて「韓国人の経済学」(1987年、ダイヤモンド社の中で、李麟栄の話を短く紹介した。
すると在日韓国人から「そんなバカなことをするはずがない。
あなたは韓国人を馬鹿にしたいのか」などと言われたものだ。
しかし、近年は親韓派の著作でも、この話が深い愛情を持った形で紹介されるようになったと聞く。
ようやく疑いが晴れたようだ。
「そんなバカなこと」があったのだ。
「孝」について少し見ただけでも、「身体髪膚…」は全く無視され、「父ありせば…」は
「滅私奉私」の価値観となって生き続けている。
ここでは手短に結論するが、今日の感覚を、日本人的感覚で「儒教の国」だと考えていたら
とんでもない誤りの始まりになる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
コメントを残す