高麗から李王朝初期にかけての艶笑話を集めた「古今笑叢」と言う漢文の本がある。
もちろん、庶民は文字を読めないから、執筆者は両班であり、読者も両班だけだった。
こういう本には、当時の朝鮮半島のありのままの文化、文明のレベルが飾られることなく示されている。
剛腕の奴婢と文弱の両班。
2人しかいない場所なら、奴婢は両班をたたき殺し逃走すればいいと思う。
が、両班はどこまでも横暴であり、奴婢はどこまでも下人なのだ。
旅人と言えば、ほとんど塩売りの商人だけ。
旅館もない。
あるいは、駆け落ちする常人(両班と奴婢の間の身分)が抱えていく家財道具とは、
どんなものだったのか。
まさに、文化、文明のレベルに関する偽らざる記述がある。
韓流時代劇の舞台、大道具、小道具が大嘘であることが明らかになる。
朝鮮史の基礎資料とされる「朝鮮王朝実録」とは違った次元での半島史に関する研究資料だと思うが、
朝鮮史学者が「古今笑叢」を引用した例を、私は見たことがない。
例えば、世宗王の間には、通信士として1429年日本に渡った重臣、朴端生の報告が載っている。
これが実に面白い。
朴端生が特に力を入れた報告は、室町時代の日本の農村で見た揚水水車だった。
配下の学生に作り方を学ばせ、王には模型まで提出し「願わくば、わが村々でも、
この模型に沿って水車を制作し、灌漑に利用されんことを…」と進言する。
進言は容れられた。
が、どうがんばっても揚水水車を作れない。
次の王、その次の王の時代にも水車を作ろうとするができない。
「曲げ木」の技術もなかったとされるが、水が逃げないようにするための正確な寸法合わせも、
寸法通りに木材を切ることもできなかったからだろう。
水が漏れない桶や樽も作れないから「古今笑叢」には、
女たちが重たい甕を頭に乗せて水運びをしている様子が頻繁に出てくる。
また染料はあっても、洗っても色落ちしない顔料はほとんど作れなかったから、
よほど身分の高い両班以外は、白い朝鮮服しか着られなかった。
朴端生の報告から330余年。
第11次の朝鮮通信使に随行する書記(漢詩を書いて日本人に贈る役割)として日本に渡った金仁謙が、
旅行中の感想などを書きまとめたのが「日東壮遊歌」(翻訳本が平凡社、東洋文庫にある)だ。
その中で、金仁謙は淀川にあった水車の見事さに感服し、「見習って作りたい」と述べている。
つまり、最初の挑戦から334年たっても、朝鮮半島の木工技術では揚水水車を作れなかったのだ。
朴端生の報告は後半にわたる。
朴端生は、「日本は貨幣経済が行き渡っており、大変に便利だ」と述べる人とともに次のように進言した。
①日本には銭湯と言うものがたくさんあり、人々は清潔だ。
わが国も銭湯を設けるべきだ。
②わが国の市場では、魚も肉も土の上に並べているが、日本には屋根がある商店があり、
棚の上に品物を置いている。
わが都の1部に同じようなものを作るべきだ。
③日本の川には橋が架り通行料をとっている。
わが国も川に橋をかける通行料を取ることで、貨幣経済を広げるべきだ。
李王朝時代の文化水準を知ることができよう。
公衆浴場もなければ、屋根のある商店もなかった。
両班とは、そういう中で「絶対に偉い人々」だったのだ。
韓国人は今、「日帝の侵略がなかったなら、わが民族は自立的発展をとげ…」などと言っている。
一部の日本人も「そうだ、そうだ」と拍手しているが、
1度で良いからネットで日韓併合前後の写真を検索ししてみるよう、お勧めしたい。
朴端生の報告から500年ほど経った半島の民の姿を見ることができる。
その背後にあった「ものづくり技術、文化」がどんなレベルにあったのかを想像する事は、
決してマイナスにならないと思う。
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