気がつくと週刊新潮を買う。この文を読みたいため。
朝鮮通信使の話は対馬の話題とセットになっているので多少は知っていましたが、
これほどの歴史があったとは。
いつになっても挑戦は酷い地域。
地理的に抑える必要があると言っても国民というか人が(・Д・)ヒドイ
やはり非韓三原則と、日本国内にいる人間の排除が必要なのではないかと思う。
変見自在35
たかるだけの国
儒学者、雨森芳洲を一言で言えば「元禄期の若宮啓文」となるか。
若宮とは朝日新聞の主筆だった人。
北京のホテルで変死したことと「いっそ竹島を韓国に譲って友好の島にしよう」と書いたこと
で人々の記憶に残っているかもしれない。
とにかくあの国が好きだった。
そんな狂気に嵌るきっかけは生の金日成に会ったことだった。
社に戻るなり願い出てソウルに語学留学に出かけた。
その後はもう韓国贔屓のネタばかりを書いた。
1995年には、日本開催が決まっていたサッカーワールドカップを「韓国と共同解開催にせよ」と社説に書いた。
朝日に盲従する宮沢喜一がそれに頷いてまさかの共同開催になった。
しかし韓国にワールドカップをやる体力はなかった。
決まってすぐのアジア通貨危機では国全体がデフォルトに陥ってしまった。
若宮が騒ぎ、FIFAの鄭夢準も走り回り、結局は日本が財政支援した。
それだけじゃない。
開催直前に9.1テロが起きてそれに伴う不況のさざなみで競技場を建てる鐘も無くなった。
やっぱり開催は無理となったところで、若宮が騒ぎ、旧日本輸銀が2億ドル融資を強いられた。
かくて開催されたものの韓国人のラフプレーと審判買収で「最も汚いワールドカップ」の汚名だけが残った。
若宮は韓国と同じ位女にも入れあげた。
そのスキャンダルを手土産に退社後、念願の韓国の大学の先生に納まった。
変死するまでは良い人生だった。
雨森芳洲は男色系の一点を除いて若宮の祖先かと思われるほど、その人生の軌跡が似ている。
彼は20代で対馬藩に抱えられ、33歳の時釜山の倭館に派遣されて生の朝鮮を見た。
若宮が金日成にあったのと同じ年頃で、同じようにのめり込んでいった。
その頃の李氏朝鮮は貧困の極みにあった。
だから徳川将軍の代替わりがあると総勢400人の通信使がお祝いと称して押しかけてきた。
彼らは丸一年も逗留して遊興に耽り、貧しいから宿の食器から寝具、床の間の掛け軸までかっぱらって行った。
老中格の新井白石はそんなたかり集団に厳しく、接待費も旅程も半減するよう命じた。
ついでに徳川将軍を「日本国王」とよいしょするよう朝鮮側に求めた。
幇間並みに扱った。
このとき通信使の接待役が芳洲だった。
朝鮮人に生まれたかった、若宮と同じ思いを語っていた芳洲は白石の処置に怒りまくった。
2人の話は本当に厳しかったが、誰が見ても白石の言う通りだった。
最終的に幕府は朝鮮側にもう江戸まで来なくていい、対馬で接遇すると伝えた。
世に言う易地聘礼だ。
二代秀忠から十代家治までたかりまくった通信使は1811年の対馬での質素な供応を最後に二度と来なくなった。
先日の天声人語はこの雨森芳洲を取り上げていた。
今の日韓のいざこざを踏まえ「威信や体面にこだわる両国の間で板挟みになった」
芳洲が半白なるほど苦労したと書き出す。
いや日本は体面などどうでもいい。
大所帯で押しかけて、接遇に100万両もかかるたかりをやめてくれといっているだけだ。
コラムは「日本国王」の件にも触れて「国威を高めることに執着した」と冗談も理解できない。
ホワイト国外しをした安倍政権をあてこすった気になっている。
それに通信使側は集っておきながら「穢れた獣のような日本人が富栄えるは嘆くべし恨むべし」
(金仁謙「日東壮遊歌」)と感謝の気持ちもない。
デフォルトを救ってやった時と同じだ。
ここは誰もが白石の対応を褒めるだろう。
コラムは最後に「互いに欺かず争わず真実を持って交わること」という芳洲の言葉で結ぶ。
それは日本が100歩も譲って呑んでやった慰安婦合意を踏みにじり、
金だけ失敬するような国に言い聞かせる言葉だ。
日本人の読む新聞に載せるのは失礼ってものだ。
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