半日韓国人撃退マニュアル Archive

0

【嫌韓】安重根のテロは、韓国併合会の流れを決定的にした

安重根のテロは、韓国併合会の流れを決定的にした

上海臨時政府はごろつき、テロリストの集団だった

「上海臨時政府」【※2】の活動、日帝への抵抗運動とする向きがあるが、

これは全く以て馬鹿げた話である。

1919年3月1日、パゴダ公園(現タブコル公園)に独立運動家が集結し、「3.1独立運動」が始まった。

実はこの運動には没落した旧両班たちの多くが参加している。

李朝時代の両班は特権階級として民衆を搾取していたが、

併合後は挑戦総督府【※3】の奴隷解放政策などによって既得権を失い、その多くが没落していた。

このことは3.1独立運動と言うものが、現在の韓国人が主張するような

「独立を求める挑戦民衆による運動」とは言い難いことを示している。

挑戦総督府に鎮圧されて運動が失敗に終わった後も、独立運動指導者たちは

各地でテロや強盗といった凶悪犯罪を繰り返し、徐々に民衆からの支持を失っていった。

その残党が上海で臨時政府を結成するのだが、当初から数多くの派閥に分裂していた。

臨時政府初代大統領に指名された李承晩(後の韓国初代大統領)も、国務総理の李東輝と衝突を繰り返し、

罷免されると言う醜態を晒している。

その後も臨時政府ない内でも内紛は収まらず、独立運動らしい事は何もできないまま終戦を迎えている。

この挑戦人たちがやったことといえば、各地でテロを起こし多数の民間人を殺傷しただけであった。

これが韓国人の言う「正当な後継政府」の実態であった。

──────────注釈

【※2】上海臨時政府

1919年の3.1独立運動の後、上海に逃れた反日活動日が設立した亡命政権。

それぞれ主張の異なる活動家が集まったため、意見の統一が全く取れず、

派閥抗争ばかりを繰り返していく。

臨時政府初代大統領の李承晩が後に大韓民国初代大統領となったことから、

現在の韓国ではこの臨時政府を、併合期における唯一の正当な政府とみなしている。

【※3】挑戦総督府

1910年の日韓併合条約に基づき挑戦統治のために韓国統監府を改装して設置した行政機関。

政治、経済、司法、警察機構などを兼ね備えており、

併合期の挑戦に関する人口や産業等の資料で現存するものは、すべて総督府の調査によるものである。

戦後に韓国が独立した際、旧総督府の庁舎は国立中央博物館として利用された。

しかし1995年、国民の反日感情により解体されることになる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ページトップに戻る↑                           ページ一番下へ↓

0

【嫌韓】李朝復活を望まなかったのは韓国人自身の選択

李朝復活を望まなかったのは韓国人自身の選択

【侵略・植民地支配を謝罪しろ】02

併合条約は無効である

──────────妄言

☑︎李王家の元で繁栄していた挑戦が蹂躙された!

☑︎上海臨時政府など当時の挑戦人は併合に反対!

☑︎皇帝の御璽がない併合条約は無効である!

世界が認める不法条約「日韓併合条約」で、日帝は繁栄を極めていた挑戦を植民地化した。

挑戦民衆は暴虐と搾取の日帝36年に苦しむが、こうした日帝の悪行に正当後継政府である上海臨時政府は

勇敢に立ち上がり、祖国の独立を勝ち取るため戦い続けたのである。

日本は併合条約が無効であることを認め、韓国に謝罪しろ!

──────────真実

併合条約によって挑戦は国家経済の破綻から救われた

☑︎李朝の圧政で挑戦は混乱の極みにあった

☑︎上海臨時政府はゴロツキ、テロリスト集団

☑︎欧米の国際法学者は「挑戦併合条約は合法」

李朝の圧政で挑戦は混乱の極みにあった。

内憂外患のうちに混乱を極めた李朝末期、当時最大の政治団体であった一進会は、

1909年12月4日に純宗への上奏文、および李完用首相に宛てた請願書を提出している。

それは「混迷を極める東アジア情勢の中で、日本との合邦だけが挑戦が生き残る唯一の方策である」

と言う趣旨のものであった。

李朝はもはや国家としての体をなしておらず、

財政面でも税収入で賄える国家予算は3分の1程度と言う有様であった。

破綻した財政を補うため「民衆からの収奪」という原始的かつ野蛮な方法で、

ただ漫然と穴埋めをしていた状態だったのである。

李朝末期には高宗や閔妃が自ら売官行為を行うなど、まさに末期症状にあり、

民衆は国内の混乱や両班【※1】など特権階級による搾取にあえいでいた。

内政の混乱だけにとどまらず、

事大先を次々に変える李朝の変節外交は日清・日露戦争の原因となり、

挑戦半島は常に極東アジアの不安定要因となっていたのである。

内政外交が大混乱する中で半島の荒廃は日に日に進み、

日本はもちろん李朝内部からも日韓併合を訴える声が相次ぐようになったのである。

しかし、このような状況にあって併合に強く反対していた日本人がいた。

現代の韓国で極悪人の代名詞としてよく呼ばれる伊藤博文である。

伊藤は日韓併合について次のように述べている。

「日本は韓国の陰謀を断ち切るため、韓国の外交権を日本に譲れと主張した。

だが、日本は韓国を併合する必要は無い。

併合は甚だ厄介である。

韓国は自治を要する。

しかも日本の指導監督がなければ、健全な自治を遂行しがたいと考える。」

(深谷博治「明治日本の対韓政策」)

伊藤博文は挑戦統監府の初代統監として挑戦の発展に寄与した人物だが

併合には反対の立場をとっており、挑戦半島を併合すれば後々の災いとなることを見越していた。

伊藤博文が挑戦人テロリスト安重根に暗殺されたことで日本国内の世論ばかりか、

一進会など進歩的な挑戦の政治団体もこぞって併合への動きを加速させていったのである。

安重根はまさに「併合を促進させた英雄」であった。

──────────注釈

【※1】両班

李朝時代の貴族階級。

韓国読みで「ヤンバン」もともとは高麗期の官僚制度を指す言葉で、官吏である文版と、

軍人の武版を合わせてこう読んだ。

李朝期には官僚制度も変革され、官僚試験を受ける資格のある身分、という意味になる。

こうして「両班」という言葉が階級を表すものとなった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ページトップに戻る↑                           ページ一番下へ↓

0

【嫌韓】挑戦最大の政治結社さえ日本との合邦を求めた

李朝を滅ぼしたのは韓国人自身!

李朝最後の国王で、大韓帝国【※7】第二代の皇帝純宗は、1910年8月22日の御前会議後に詔勅を発して、

挑戦の統治権を日本国天皇陛下に譲与することを宣言して退位した。

しかし純宗自身は、併合条約第三条「日本国皇帝陛下は、韓国皇帝陛下、

皇太子殿下並びににその后妃及び後裔をして、各その地位に応じ相当たる尊称、

威厳及び名誉を享有せしめ、かつこれを保持するに充分なる歳費を供給することを約す」

という条文に基づき、大韓帝国の元皇帝として相応しい待遇を受け、

退位後は「李王」と呼ばれ昌徳宮(李朝の宮殿)にそのまま居住している。

国王を無理やり退位させ、辱めたような韓国側の主張は完全に間違っている。

2005年7月16日、李朝最後の末裔李玖(イグ)【※8】(享年76歳)が日本で亡くなった。

李朝26代高宗の王子、英親王と李方子妃の息子であった故人の死去により、李朝の嫡流が途絶え、

ここに李朝は完全にその幕を下ろした。韓国建国(1948年8月13日)後も李朝の末裔は存在し、

もし韓国民が望むならいつでも李朝は復活することができたのである。

李朝を滅ぼしたのは、他でもない韓国人自身ではないのだろうか。

──────────注記

【※7】1897〜1910年まで李氏朝鮮が名乗った国称。

日清戦争後に清が朝鮮の宗主権を放棄したため、朝鮮は属国の立場を脱して独立国家となった。

【※8】李玖(英親王)の子として、1931年に東京で生まれた。

戦後はアメリカ留学で建築学を学び、李朝最後の皇太子にして建築家、という肩書きをもつ。

のちにアメリカ人女性と結婚してアメリカに帰化。李承晩政権が帰国を許さなかったが、

朴正煕政権期の1963年、韓国に戻る。

しかし事業に失敗、妻とも別れた後は東京で生活。2005年、日本のホテルにて心臓麻痺で死去。

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ページトップに戻る↑                           ページ一番下へ↓

0

【嫌韓】挑戦は歴代中華帝国の千年属国でしかなかった

挑戦は歴代中華帝国の千年属国でしかなかった

多くの韓国人が日本との合邦を主張した

改めて李朝末期の様子を見てみよう。閔妃【※5】と大院君【※6】の政争に加え、

高宗の無能ぶりにより、挑戦半島の混乱は極みに達していた。

売官(間食の売り渡し)、賄賂、違法な搾取行為など、李朝の内政・財政は破綻しており、

日本・清・ロシアの間を揺れ動く一回しない外交は東アジア情勢を不安定にしていた。

日清日露の両大戦もつまるところ挑戦半島の極度の不安定に起因した戦争であり、

日本だけでなく挑戦半島からも極東情勢の安定を目指して日韓合邦を求める声が上がっていたのである。

挑戦最大の政治結社であった一進会を始め、

挑戦のさまざまな進歩的団体や有識者たちから次々と日本との合邦を訴える声があがっていたことは、

当時の挑戦半島がいかに混乱の極みにあったかを物語っている。

一進会とは、明治維新によりアジア唯一の列強となった日本を手本とし、

立憲君主制の元で祖国の立て直しを図るべく、李容九、宋乗驕などが中心となって

1904年に結成された李朝末期の政治結社である。

最盛期には百万会員を自称し挑戦最大の政治勢力となったが、

一向に進まない李朝の政治改革へ苛立ちを募らせていた。

1909年に起きたテロリスト安重根による伊藤博文暗殺という暴挙に衝撃を受けた

李容九などの一進会指導者たちは、李朝の自力再建は不可能と判断し、

暗殺事件後直ちに挑戦総統府や李朝政府に対して、日本との合邦を百万会員の連名で嘆願したのである。

さらに、李朝全権大使を務めた李成玉や、改革派の金玉均を暗殺した洪鐘宇でさえ、

日本との合邦だけが挑戦の生き残る道だと主張していたのだ。

こうした情勢を受け、両国は1910年の日韓併合条約をもって正式に「一つの国家」となったのである。

──────────注記

【※5】閔妃

李朝の第26代王、高宗の第一夫人。韓国読みで「ミンビ」。

閔氏一族なら国政に口を出す心配もないだろう、という理由で妃に選ばれたが、その読みは外れた。

すぐに一族が実権を掌握し、ほとんど「閔氏挑戦」といった有様になる。

当初は開国政策をとり挑戦の近代化を目指していたが、守旧派に暗殺されかけると態度を一変、

清国とつるんで近代化を阻んだ。

挙句、1895年に暗殺された。

【※6】大院君

高宗の父。正式には「興宣大院君(こうせんだいいんくん)」李朝王族の一人だが、

彼自身は王にはなっていない。

息子(高宗)が幼くして即位したため、摂政として実権を握った。

国内の旧体制を打破するような政治を行ったが、外交面では鎖国政策を徹底。

息子の嫁(閔妃)が権力を手にすると、国政から追放されてしまう。

再び政権に戻ることなく、1898年に死去。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ページトップに戻る↑                           ページ一番下へ↓

0

【嫌韓】侵略・植民地時代を謝罪しろ01

【侵略・植民地時代を謝罪しろ】01

韓国を侵略して植民地にした

──────────妄言

日帝は挑戦王朝を滅ぼして韓国を植民地にした!

☑︎日帝は独立国家韓国から主権を奪った!

☑︎韓国を武力侵略して植民地にした!

☑︎27代519年続いた挑戦王朝を滅ぼした!

日帝は、519年間平和と繁栄を築いた偉大な挑戦王朝(李朝)を滅ぼし、

日本にとって大恩ある兄ともいえる国を、事もあろうに植民地にしたのである!

植民地にされた挑戦半島では、日帝への怨嗟の声が2000万同胞の怒りとなって満ち溢れた。

民衆は李王家の忠誠を誓い、独立をかけて命懸けで日帝と戦ったのだ!

──────────真実

合邦を望んだのは李朝の圧政に苦しんだ挑戦人だ。

☑︎日清戦争以前は挑戦に主権などなかった。

☑︎多くの挑戦人が日本との合邦を主張した。

☑︎李朝を滅ぼしたのは韓国人自身。

──────────日清戦争以前は挑戦半島に主権はなかった。

1392年、李氏挑戦(以降、李朝)初代国王とされる李成桂(イ・ソンゲ)

【※1】が高麗【※2】の共譲王から王位を簒奪(帝王の位を奪い取ること。

「帝位を―して新王朝を開く」)し。挑戦半島に新しい王朝を打ち立てた。

その後李朝は約500年に渡って続いたが、1895年4月17日に締結された下関条約

(日清戦争集終結に際して結ばれた講和条約)第一条で清帝国による李朝への宗主権を放棄させるまで、

挑戦半島は一貫して歴代中華帝国(明・清)の属国であり主権は存在しなかった。

王位簒奪後、李成桂は当時の中華帝国「明」にその旨を報告し、

自分が新しい挑戦半島の支配者となったことを伝えている。

しかし明は李成桂を挑戦国王ではなく

「高麗国事」(1392〜1393)、「挑戦国事」(1393〜1398)として封じている。

この「国事」とは国王代理職のことで、李成桂は正式に国王を名乗ることを明から許されなかったのだ。

李氏が正式に挑戦国王として認められたのは、李朝第三代共定王(在位1400〜1418)

からであった。

李朝は成立当時から自国の王位を他国の決定に委ねるなど、

とても主権をもった国家とは言い難い有様であった。

さらに李朝の国号「挑戦」についてその経緯を見ると、

主権を持たない哀れな国家の実態が明らかになってくる。

『挑戦王朝実録』【※3】によれば高麗国事に封じられた李成桂は明に使者を送り、

改めて高麗に代わる新しい国家樹立の許可とその国号を求めている。

この時、李成桂は「挑戦(チョソ)」と「和寧(ワニョン)」という二つの国号を候補として、

明にどちらかを選んでもらうことを請い「挑戦」が正式な国号となったのである。

このような自国の国号さえ他国の決定に委ね、

大国に対して卑屈なまでにおもねるやり方を「事大主義」と呼ぶ。

常に強者に対して犬のように恭順を示し忠誠を誓って生き延びてきたのが李朝だったのである。

 

1910年、日韓併合条約【※4】によって李朝は挑戦半島の支配権を失い、

これをもって現在の韓国人たちは「悪辣な日帝(日本帝国主義)が挑戦半島から主権を奪った!」

と主張しているが、そもしも李朝には主権など存在していなかった。

それどころか日本は、李朝を清の属国から解放し、

挑戦半島を初めて自主独立をの道を開いた恩人と言っていいだろう。

しかし事大主義以外に統治手段を持たなかった李朝にとって「主権」は手に余るものであり、

自主独立は挑戦半島を混乱に陥れただけであった。

1910年8月29日、李朝最後の国王純宗が出した日韓併合直前の勅諭でも

「国内の混乱、国事を収集できなくなった」とはっきり述べられている。

日本によって与えられた主権も、その統治能力の欠如によって放棄せざるを得なかったのが実情なのである。

──────────注記

【※1】李氏挑戦の初代王で、太祖とも呼ばれる(在位1393〜1398)。

高麗王朝に対しクーデターを起こし、李朝を建国。開京(北挑戦の開城)から

漢城(現在のソウル)へと遷都した。

【※2】高麗918年、地方豪族の王建が建国し、936年に挑戦半島を統一。

中国北方の騎馬民族による侵攻を受け続け、漢民族ではない金(女真族)や元(モンゴル)に忠誠を誓う。

末期には元と明のどっちにつくかで国内が分裂。そのスキをついた李成桂により滅ぼされた。

【※3】『挑戦王朝実録』春秋館・芸文館という部署に編纂させた、李朝の歴史記録書。『李朝実録』とも言う。

太祖(李成桂)から代々の王の政治や、同時代の事柄がなどが書かれている。

【※4】1910年に調印された、韓国の全統治権を日本の天皇に譲渡する旨の条約。

正式には「韓国併合ニ関スル条約」という。この条約により、挑戦半島は日本の一部となった。

1965年に日韓基本条約が締結されたことで、併合条約の内容は無効となった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ページトップに戻る↑                           ページ一番下へ↓

0

【嫌韓】半日韓国人撃退マニュアル 2

──────────2

まえがき——本書の目的

本書は「韓国人の妄言・歴史捏造に反論するための入門書」です。

もしあなたが、韓国人あるいは在日韓国人・挑戦人から「日本は韓国を植民地にした!」

「在日は胸腺連行の被害者だ!」と詰め寄られ謝罪を要求されたら、どうしますか?

おそらくほとんどの日本人は「とりあえず」謝ってしまうのではないでしょうか。

韓流」ブームに乗せらられて韓国旅行に行ったら、なぜか「植民地支配」を謝罪させられていた、

という悲喜劇は枚挙に暇がありません。

こちらから言わなくとも、観光やビジネス、留学、売春、犯罪など様々な目的で日本を訪れる韓国人は、

現在年間200万人を超えています。

また60万人もの在日韓国、挑戦人が日本に住んでいます。

半日韓国人と関わりを持ってしまう危険は、あなたのすぐそばに常に存在しているのです。

海外にも韓国人が待ち構えています。

特アメリカ西海岸やカナダのバンクーバーなど韓国人が多い地域の学校に留学した日本人は

かなりの確率で韓国人留学生から歴史論争を吹っかけられるようです。

数年前にカナダに語学留学をしていた某氏は、韓国人グループから顔を「植民地支配」や

「従軍慰安婦」などについて謝罪を求められ、たまらずクラスを変更したそうです。

長年韓国に出張していた某氏は取引先の韓国企業との交渉の席で韓国人から

「日帝三十六年」を持ち出され辟易させられたことは、二度や三度ではないといいます。

そして日本国内では在日韓国・挑戦人が「強制連行の被害者」を自称して

日本を罵り、ことあるごとに「差別だ!」と叫んで日本人を恫喝し、

さまざまな「在日特権」を要求してきました。

そして現在も「外国人参政権」や「福祉給付金」などの要求で「過去の歴史的経緯」を持ち出して

日本人を揺さぶっています。

これまで日本人は韓国人の主張を「おかしいのでは?」と思いながらも、

どう反論してよいかわからず、仕方なく頭を下げてきた人も

多かったのではないでしょうか。

韓国人ははよく「韓日の歴史を知らない」と批判します。

それは確かに的を得ていますが、レは彼らの主張する歴史はというと、

そのほとんどが捏造でしかないのです。

しかし、捏造されたものとはいえ一定の歴史知識を持っていることから、

何の知識もない日本人が突然「過去の歴史」について責め立てられたとき、

反論することは容易でなく、不本意ながら謝罪してしまうといったことが起こってしまうのです。

「ことの是非はともかく深く謝罪することが大人の態度」という考え方は、

日本人だけで通じるものです。

挑戦民族にとって人間関係とは基本的に「支配と服従」の②種類しか存在せず、

謝罪=服従と見なされることを覚えておいたほうがいいでしょう。

韓国人は幼い頃から半日教育一色で英才教育されてきた「半日民族」であり、

日本人に対して絶対的な道徳的優位に立っていると思い込んでいます。

謝罪は彼らをますます増長させて次の言いがかりを生み出すだけで、何の解決にもならないのです。

執筆にあたって、韓国人の半日妄言や歴史捏造に対してどのような論拠をもって反論すべきかを、

初めて韓国問題に触れる方でもご理解いただけるように、できるだけ易しく書くことを心掛けました。

本書が読者の皆様にとって日韓の歴史の真実、

そして韓国人や在日韓国・挑戦人の実態を知るきっかけになれば何より幸いです。

──────────自分の感想

過激な発言をすることで知られる同氏が、このようのわかりやすい話し方、書き方をするとは驚きで、

編集者が優れたかたもしれません。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ページトップに戻る↑                           ページ一番下へ↓

0

【嫌韓】半日韓国人撃退マニュアル 1

注意

これは、さくらいまこと氏(わざと検索に引っかからないようにひらがな)が刊行された

半日韓国人撃退マニュアル(はんにちを誤変換)を書き起こしたものです。

本来ならば違法ですが、同氏の意向からしてお許しいただけるものと信じます。

以前、「挑戦人は(わざと誤変換しています)〇〇がマイナスだよね」などSNSに書いたところ

色々な嫌がらせを受けました。

後で考えて見ると、自分が嫌な語句を常に検索して文句をいうパターンが出来上がっているようです。

ですのでわざと彼ら彼女らが反応する語句を誤変換してあります。

無知は罪だと思います。知らないことはいい負けて損をしてしまいますので、

皆さんで勉強していきましょう。

──────────半日韓国人撃退マニュアル

晋遊舎ブラック新書

桜井誠

本書は「韓国人の半日妄言に対し、論拠をもって反論するための入門書」です。

韓国人は半日思想と捏造歴史で英才教育されてきた「半日民族」であり、

日本人に対して道徳的優位に立っていると勘違いし、「日本人には何をしてもいい」

と考えています。もしあなたが韓国人から「日本は韓国を植民地支配した!」と、

あるいは在日から「我々在日は強制連行の被害者だ!」などと詰め寄られ、

謝罪を要求されたら、いったいどうしますか?

本書は、2006年12月に小社より刊行された『嫌韓流実践ハンドブック 半日妄言撃退マニュアル』を

新書向けに改訂・再編集し、内容を一新したものです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ページトップに戻る↑                           ページ一番下へ↓

error: Content is protected !!