【歴史の隠された真実】あるフィリピン人奴隷の一生

あるフィリピン人のメイドの一生。ほとんど奴隷と言っていい。

昔の貧しい日本人に通じるところがあるかもしれないし、

父母祖父祖母の時代に通じることもあって、ちょっと感動した。

著者も主人公も今はないのがさらに寂しい。

もとの記事を読めばいいのだけど、脚色されすぎて読みにくいのでこちらに転載した。

参照先:https://kaikore.blogspot.jp/2018/01/lolas-story.html

アクセス解析ツールChartbeatを運営する米国のChartbeat社が発表した

『2017年最も読者を魅了した記事ベスト100』 の1位に輝いた アメリカの時事月刊誌

「The Atlantic」 の記事『私の家族の奴隷(My Family’s Slave)』の翻訳です。

著者のアレックス・ティゾンは1997年にピュリッツァー賞を受賞した

フィリピン系米国人ジャーナリストで2017年3月に57歳で亡くなりました。

この記事は彼の遺作となっています。

その灰はトースターの大きさほどの黒いプラスチック製の箱に詰まっていた。

それは3ポンド(約1.36kg)ほどの重さで、私はそれをキャンバス製のトートバッグに入れ、

スーツケースに詰めて、フィリピンのマニラに向かう飛行機に搭乗した。

マニラに到着し、そこから車で地方の村に向かう、56年間私の家族の奴隷として

過ごした女性を故郷に返すために。 それは2016年7月の出来事だった。

彼女の名前はEudocia Tomas Pulidoだった。 私たち家族は彼女をローラと呼んだ。

彼女は身長4フィート11インチ(約1.5m)、モカ・ブラウン色の肌とアーモンド形の目を持った女性で、

今でもその姿をありありと思い出すことができる。

彼女は私の母が子供の頃に祖父からもらった “贈り物” であり、当時彼女は18歳だった。

私の家族がマニラからアメリカに移住する際、私たちは彼女を共に連れていった。

彼女の生活は奴隷以外の何物でもなかった。 彼女の日々は私たち家族が目を覚ます前に始まり、

家族が寝静まった後に終わった。 彼女は1日3食を用意し、家をきれいに掃除し、

両親が仕事から帰るのを迎え、4人の兄弟と私を世話した。

私の両親は決して彼女に給料を支払わず、彼らは常に彼女を叱っていた。

彼女は足枷こそされていなかったが、されていたも同然だった。

夜にトイレに行く途中で、彼女が洗濯が終わった服を折り畳む途中で、

その洗濯物の山に向かって倒れるように眠っていた様を何度見たかわからない。

私たちのアメリカ人の隣人たちは、私たちを理想的な移民家族のように思っていた。

実際彼らは私たちにそう言った。 私の父は法律の学位を取得し、母親は医者になった。

私も兄弟も良い成績を残していた。 だが決してローラのことについては誰にも語らなかった。

母が1999年に白血病で亡くなった後、ローラは私と共にシアトル北部の小さな町に住み始めた。

私は家族を持ち、キャリアを積み、郊外に家を持つという、

まさにアメリカンドリームを勝ち取った移民だった。 そして、私は奴隷を所持していた。

マニラの手荷物預かり所で、私はローラの遺灰がちゃんと入っていることを

確認するために荷物を解いた。

外では、排気ガスと、ゴミと、海と、甘い果実と、人々の汗が混合したなじみ深い濃厚な匂いがした。

翌朝、早いうちから私は目的の場所まで運んでくれる運転手を雇い、

トラックで渋滞の中を縫うようにゆっくりとその場所まで向かった。

クルマやオートバイ、ジープニー(フィリピンで使われている小型乗り合い自動車)の溢れる

その光景は私の知っていたフィリピンの光景と全く違っていて私を驚かせた。

“祖父は彼女に近づきこう申し出た、「娘の世話することを約束すれば、

食べ物と雨風をしのげる場所を与えよう。 」” 私たちが向かった場所は

フィリピン北部ルソン島にあるタルラック州であり、 それはローラの物語が始まった場所だった。

そこは軍の中尉のだった私の祖父、トマス・アスンシオン(Tomas Asuncion)が かつて住んでいた場所だ。

彼は土地を多く所有していたがお金になる資産は少なく、

愛人たちをその敷地内にある別々の家にかこっていた。

私たち家族は祖父を風変りで 暗い雰囲気を持つ恐ろしい男性と記憶している。

祖父の妻は唯一の子供、私の母を産んですぐに亡くなった。

母は祖父が所有する奴隷の手によって育てられた。

その地域の島々では長い奴隷制度の歴史が存在した。

スペイン人が来る前から島民は 他の島民(通常は戦争捕虜や犯罪者、債務者)を奴隷にしていた。

奴隷は財産とみなされ売買される対象だった。

また高い地位にある奴隷は低い地位にある奴隷を所有でき、

その低い奴隷はさらに低い奴隷を所有するということもあったという。

中には生き残るために自ら隷属に入ることを選んだ人もいる、

労働と引き換えに彼らは食糧や家、保護を受けることができたのだ。

そして1500年代にスペイン人が現れた時、彼らは島民を奴隷にし、

後にアフリカとインドの奴隷を連れて来た。

スペインは最終的には家庭内とその植民地での奴隷制度を段階的に廃止するようになったが、

当局の目の届かないフィリピンの一部ではその後も奴隷制度が継続していた。

1898年に米国が島を支配した後でさえ、その伝統は異なった形で存続し続けた。

貧困が深刻な問題となっているこの地域では今日でも奴隷に近い扱いの人々が存在している。

私の祖父は3家族の奴隷(に近い扱いの人々)をその敷地内で住まわせていた。

1943年の春、その地域の島々が日本の占領下にあった時代、祖父は近くの村から

一人の少女を家に連れて来た。 彼女は農家の娘で、 貧しく、学校教育を受けておらず、従順に思われた。

少女の両親は彼女を二回りも年の離れた農夫と結婚させることを望んでいた。

彼女はそれを強く嫌がったがどうすることもできなかった。

祖父は彼女に近づきこう申し出た、「娘の世話することを約束すれば、

食べ物と雨風をしのげる場所を与えよう。 」母はまだ12歳になったばかりだった。

ローラはその契約が生涯続くものであることを理解せずに同意した。

祖父は母にこう言った。

「この子はお前への “贈り物” だ。 」 「私はそんなの望んでない」 母はそう答えた、

拒否することが不可能であることを知りつつ。

やがて祖父は日本人と戦うために家を後にした、地方の老朽化した家に母とローラを残して。

ローラは毎日母の食事を作り、身なりを整え、服を着せた。

母が市場を歩くときはローラは日差しから母を守るために傘を持って随行した。

夜になるとローラは日々の仕事、犬に餌を与え、床を掃除し、

川で手洗いで洗濯した衣類を折りたたむ作業が終わると、

彼女は母のベッドの脇に座り母が眠りにつくまでうちわで扇いでいた。

18歳当時のローラ(左) image via theatlantic.com All photos courtesy of Alex Tizon and his family

ある日、まだ日本との戦争中だった時、祖父は家に帰ると母を捕まえ怒鳴り声をあげた。

母が言うには、はっきりとは覚えていないが話してはいけないと言われていた少年と

何か関係があったらしい。

祖父は怒り、母に「テーブルの側に立て」と命じた。

怯えた母はローラと共に部屋の隅に縮こまった。 そして、震えた声で、母は祖父に、

ローラが代わりに罰を受けると言った。 ローラは懇願するような目で母を見たが、

すぐに無言でダイニングテーブルに向かった。

祖父はベルトを持ち上げて、「You. Do. Not. Lie. To. Me.(私に、嘘をつくな!)

You. Do. Not. Lie. To. Me(私に、嘘をつくな!)」と刻みながら12回、ベルトをローラに振るった。

ローラはその間も声をあげなかった。

私の母は、彼女の人生の後半に差し掛かった頃にこの話を詳しく私にしてくれた。

母の言葉は「私がそんなことをしたなんて信じられる?」といったトーンをはらんでいた。

ローラはその話に耳を傾けている間、視線を下げていた。 そして彼女は悲しそうな表情で私を見ながら

「ええ、そんな感じでしたね」とだけ口にした。

その祖父の折檻から7年後の1950年に母は私の父と結婚しマニラに移り住んだ、もちろんローラを連れて。

そのころ祖父は、おそらく戦争の体験も影響したのだろうが、日々悪夢に悩まされいた。

そして1951年、32口径をこめかみに当てて引き金を引いた。

母はそのことについてほとんど話をしなかったが、祖父の気質をしっかりと受け継いでいた、

強権的で、気分屋で、実は脆弱な心を。

そして母は祖父の「命令を与える立場にいる人間はその役割を受け入れなければならない」という

考えも受け継いでいた、それは彼ら自身のために、家族のために常にどこかで意識すべきことであると。

それによって子供たちは泣くかもしれないし不平を言うかもしれないが、彼らの魂は感謝するだろうと。

ローラ27歳、アメリカに移住する前、著者の兄と。

image via theatlantic.com All photos courtesy of Alex Tizon and his family

私の兄アーサーは1951年に生まれた。

私は次に、さらに3人の兄弟が続いた。 私の両親はローラが両親たちにそうしてきたように、

子供たちにも献身的でいることを期待していた。 ローラが私たち兄弟の世話をしている間、

私の両親は学校に通い高度な学位を取得したがマニラには職がなかった。

そしてある時大きな転機が訪れた、父に外務省への就職の話が出てきたのだ。

給料は僅かだったがその仕事先はアメリカにあった。 それは両親が子供のころから夢見てきた場所であり、

両親が望むものすべてが実現する可能性のある国だった。

父は家族と一人の家事奉公人を共に連れて行くことを許されていた。

両親は両方とも働かなければならないと考え、子供と家を世話するためにローラを必要とした。

母はローラにそれを伝えたが、彼女はすぐに返事をできなかった。 後にローラから話を聞くと、

彼女は恐怖を感じていたという。 「それはあまりにも遠すぎる場所です。 」彼女は言った。

「あなたの両親は、もう私を帰宅させてくれないつもりなのではと思いました。 」

最終的にローラにアメリカ移住を決断させたのは、父の、アメリカではもっと良い生活が待っている

という約束だった。

父はアメリカに着いたらすぐにローラに「手当」を与えると言った。

そうすればローラは村に残った彼女の両親や親族に送金することができると。

ローラの両親は床が土のままの小屋に住んでいた。

ローラは両親にコンクリートの家を建て彼らの生活を劇的に改善できることを夢見たのだ。

“それは私を混乱させる光景だった。 両親は私たち子供に愛情を込めて接したかと思えば、

次の瞬間にはローラにきつくあたるのだ。 ” 1964年5月12日、私たちはロサンゼルスに降り立った。

その時点でローラは21年間私の母に尽くしていた。

数多くの面において、彼女は私の母や父よりも私の親だった。

彼女の顔は私が朝最初に見る顔であり、夜最後に見る顔だった。

私が赤ん坊の頃、 “ママ”や “パパ” などと喋るよりもずっと前からローラの名前を発していた。

私が幼児の頃、ローラが私を抱かない限り、 少なくとも近くにいてくれない限り私は眠りにつかなかった。

米国に移り住んだ時点で私は4歳だった。

ローラの、私たちの家族における立場を理解するにはあまりにも若すぎた。

だが私や兄弟は母国から距離的にも社会文化的にも遠く離れた地で育ったこともあり、

それまでとは違った世界の見方を育んだ。

だが一方で、母と父は環境を大きく変化してもなお変わることは、

あるいは変わろうとする意思はなかった。

ローラが約束された手当を受けとることはなかった。

彼女は私の両親に、アメリカで生活し始めてから何度か遠まわしにそれを尋ねた。

ローラの母は病気に陥っていた(私は後にそれが赤痢だったと知る)。

彼女の家族は必要な薬を買う余裕がなかった。

ローラは私の両親に「可能ならば、どうか」と尋ねたが、母は溜息を吐き、

父は「どうしてそんなことが言い出せるんだ?」とタガログ語で答えた。

「今私たち家族がどんなに大変な時期にあるかわからないのか?君には恥というものがないのか?」

当時、私の両親はアメリカへの移住のためにお金を借りており、さらに滞在するためにもっと借りていた。

父はロサンゼルスの領事館からシアトルのフィリピン領事館に転属されていた。

父は年に$ 5,600を給与として受けてっていた。

メインの仕事以外にもトレーラーの清掃、債務回収人としても働いていた。

母はいくつかの医学研究室で技術者として仕事をしていた。

私たちはアメリカに移ってから両親の姿をほとんど見たことがなく、

見ることがあってもしばしば疲れている様子で不機嫌だった。

母は帰宅したときにローラが家を十分に清掃できていなかったり、

郵便物を取ることを忘れたりすると彼女を叱責した。

そして父が帰宅するとまたローラに怒鳴り声をあげた、そのたびに家の誰もがすくみ上った。

時には私の両親は二人でローラを責め立てた、彼女が泣いてしまうまで、

まるで泣かせること自体が目的であるかのように。

それは私を混乱させる光景だった。 私の両親は私や兄弟には優しく、私たちも両親を愛していた。

しかし、両親は私たち子供に愛情を込めて接したかと思えば、次の瞬間にはローラにきつくあたるのだ。

私がローラの状況をはっきりと理解したのは私が11歳か12歳の頃だった。

8歳年上の兄のアーサーから、それまで私の理解になかった “奴隷” という言葉を教わった。

彼がそれを教えてくれるまで、私はローラを家庭内の不幸な一員としか考えていなかった。

両親がローラを怒鳴りつけるのが嫌で仕方がなかったが、

だからといって彼女を奴隷として扱っている状況を不道徳とはまだ思えなかった。

(左)ローラと子供たち。

(右)アメリカに到着して5年後、両親、兄弟、ローラとともに著者(左から2番目)。

image via theatlantic.com All photos courtesy of Alex Tizon and his family

「彼女と同じような扱いを受けている人間を知っているか?」

「彼女のような生き方をしている人間が他にいると思うか?」

「無給で毎日骨折って働く人間がいるか? 椅子に長く座りすぎだと怒鳴りたてられる人間がいるか?

毎日クズや食べ残しをキッチンで食べる人間が、外出もほとんせず、友人も趣味も持てず、

プライベートな空間が家にまったくない人間が他にいると思うか?

(私たちが住んできた家では、ローラが寝る場所はいつもソファーや倉庫や

妹のベッドルームの隅などだった。 ) 」

兄はローラの現実を要約した。 私たちはローラと同じような立場にいる人間を

テレビや映画の奴隷のキャラクターでしか見つけることができなかった。

ある晩、9歳だった妹・リンは夕食に現れなかった。 父はローラに怠慢だと怒鳴りつけた。

「私は彼女に食事をとってくれるよう言いました」と立ち上がりにらみつける父にローラが答えた。

彼女のか弱い抵抗は父をより怒らせ、父は彼女を殴りつけた。 ローラが部屋から飛び出す。

私は彼女の泣き声をはっきりと聞くことができた。

「リンはお腹がすいていないって言ってた。 」 私は言った。

私の両親は振り返り驚いた表情で私を見た。 私は涙が出る前に感じる顔の痙攣を感じたが、

この時は泣かなかった。 母の目には、それまで見たことのない何か暗い影が映っていた。

嫉妬? 「お前はローラの味方をするのか?」と父は言った。

「そんなことをするのか?」 「リンはお腹がすいていないって言ってた…」

私はもう一度、つぶやきに近い小さな声で言った。 私は13歳だった。

それは私たちの日々を見守ってくれた女性のために立ち上がった最初の試みだった。

彼女は私を寝かせつけるためにタガログ語の子守歌を聞かせてくれた女性だった。

服を着せ私に食事を与えてくれ、朝に私を学校に連れて行き、午後に私を迎えに来てくれた女性だった。

私が長い間病気でふせていると、食べる元気がない私のために食べ物を噛んで

小さくし食べさせてくれた女性だった。

夏の日、間接を痛めたことから両脚を石膏で固めた時に毎日洗面器を持ってきて私を拭いてくれたのは、

夜中に薬を持ってきてくれたのは、数ヶ月のリハビリを通して私を助けてくれたのは彼女だった。

ローラの嘆き悲しむ声を聞くことは耐え難いことだった。

“アメリカに来て最初の10年、私たちはこの新しい土地になじむ努力をした。

だが奴隷を持つという事実だけはこの国ではなじみようがなかった。

奴隷を持つことは、私たち家族に対する、私たちのこれまですべてに対する強い疑問を私にもたらした。

” かつていたフィリピンでは両親はローラへの扱いを隠す必要はないと感じていた。

だがアメリカではそれを隠すために苦労ししていた、そして彼女への扱いはよりきつくなっていた。

ゲストを家に迎えた時は両親はローラを無視するか、質問されれば嘘をつき素早く話題を変えた。

シアトル北部に住んだ5年の間、私たちは通りを挟んだ隣人であり

騒々しい8人家族であるミズラー家の人々を親交を持ち、彼らからサーモン釣りや、

芝生の手入れや、マスタードなどの食べ物、テレビでのフットボールを観戦し盛り上がれば大声をあげる、

色々なアメリカ的なことを学んだ。

ミズラー家の人々と共に試合を観戦中、ローラは食べ物や飲み物をリビングに運び、

両親はすぐに消える彼女の背中に向かって笑顔でありがとうと伝えていた。

「今キッチンに向かった小柄な女性はどなたですか?」

ミズラー家の父のビッグ・ジムがそう一度尋ねたことがある。

父は、故郷の親戚だと答えた。 「彼女はシャイなんだ」 ビッグ・ジムの息子ビリー・ミズラー、

私の親友はそれに納得できていなかった。

彼はよく私に会いに私たちの家を訪れた、時には週末ずっといたこともあった。

それは、私の家の秘密垣間見るに十分な時間だった。

彼は一度、私の母親がキッチンで叫んでいるのを聞き、何事かとその場を覗き、

顔を真っ赤にした私の母とキッチンの隅で震えていたローラを見た。

私はその数秒後にその場を目撃した。 ビリーはきまり悪さと混乱が混ざったような表情をしていた。

“あれはなんだ?” 私はそれを無視して忘れるように彼に言った。

ビリーはおそらくローラをかわいそうだと思ったことだろう。

彼はローラの料理を誉め、彼女をよく笑わせた、私が見たことがないような笑顔をローラは見せていた。

お泊り会の時にはローラはビリーの好きなフィリピン料理、白米の上に牛肉のタパを乗せた料理を作った。

(beef tapa:薄切りの牛肉を魚醤・ニンニク・砂糖・塩・コショウなどで炒めた

フィリピンの家庭料理) 料理はローラ唯一の自己主張の方法であり、それは雄弁だった。

少なくとも私たちは彼女の作る料理に愛情というものがこもっていたことをはっきりと認識していた。

そしてある日、私がローラを遠い親戚だと言及したとき、ビリーは私と最初に会った時に

私が彼女を祖母だと言っていたことを思い出した。

「なんていうかまあ、彼女はそのどちらでもあるというか...」と私は言葉を濁した。

「なぜ彼女はいつも働いているのんだ?」 「彼女は仕事が好きなんだよ」私は答えた。

「君のお父さんとお母さん、彼らはなぜ彼女を怒鳴りつけるんだ?」

「彼女は耳があまり良くないんだ...」 スポンサードリンク 真実を認めてしまうことは、

私たち家族の秘密を暴露することを意味していた。

アメリカに来て最初の10年、私たちはこの新しい土地になじむ努力をした。

だが奴隷を持つという事実だけはこの国ではなじみようがなかった。

奴隷を持つことは、私たち家族に対する、私たちのこれまですべてに対する強い疑問を私にもたらした。

私たちはこの国に受け入れられるに足るべき存在なのか? 私はそれらをすべて恥じていた、

私自身もまた共犯者であることを含めて。

彼女が調理した料理を食べ、彼女が洗濯しアイロンをかけクローゼットに掛けた服を着たのは誰だ?

しかしそれでも、仮に彼女を失うことになっていたとしたらそれは耐えがたいことだっただろう。

そして奴隷を持つということ以外にもう一つ、私たち家族には秘密があった。

私たちが米国に到着してから5年後、ローラの滞在許可は1969年に失効していたのだ。

彼女は私の父の仕事に関連付けられた特殊なパスポートで渡米した。

父は上司との度重なる仲たがいの後に勤めていた領事館を辞め、

その後も米国に滞在するため家族の永住権を手配したが、ローラにはその資格がなかった。

父はローラを国に返すべきだったのにそうしなかった。

51歳当時のローラ。 彼女の母親はこの写真が撮影される数年前に亡くなった。

彼女の父親はその数年後に亡くなった。 いずれの時も、ローラは家に帰ることを必死に望んでいた。

image via theatlantic.com All photos courtesy of Alex Tizon and his family

ローラの母、フェルミナは1973年に亡くなった。

彼女の父、ヒラリオは1979年に亡くなった。 いずれの時も、ローラは家に帰ることを必死に望んでいた。

そのいずれの時も、私の両親は “すまない” “金銭的な余裕がないんだ” “時間を作れない”

“子供たちは君を必要としている” と答えた。

私の両親は後に私に告白したが、そこには彼女を返すことのできない別な理由もあったという。

当局がローラの存在を知れば、そして彼女が望む通りアメリカを離れようとすれば当然知られることになる、

そんな事態になれば私の両親は大きな問題を抱えることになり、

国外追放される可能性も十分にあったのだ。

彼らはそのような危険を犯すことはできなかった。 ローラの法的地位は「逃亡者」となっていた。

彼女はほぼ20年間 “逃亡者” としてこの国に滞在したのだ。

彼女の両親がそれぞれ亡くなった後、ローラは何ヶ月も陰鬱に、寡黙になった。

私の両親がしつこく言っても彼女はほとんど答えなかった。

だがしつこく言うことが終わるわけでもなく、ローラは顔を下げたまま仕事をした。

そして父が仕事を辞めたことで私たち家族にとって波乱となる時期が始まった。

金銭的に苦しくなり、両親は次第に仲たがいするようになった。

シアトルからホノルルへ、そしてまたシアトルへと戻り今度はブロンクスへ、

転々と住む場所を変え、最終的にはオレゴン州の人口750人の小さな町、ウマティラに移った。

その間、母は医療インターンとして、その後に研修医として24時間シフトで働き、

父は何日も姿を消すようになっていた。

父はよくわからない仕事をしており、それとは別に私たちは後に浮気やらなにやらしていたことを知った。

突然家に帰り、ブラックジャックで新しく買ったステーションワゴンを失ったと言い出したこともあった。

家では、ローラが唯一の大人になる日が何日も続くようになった。

彼女は家族の中で最も私たち子供の生活を知る人となっていた、

私の両親にはそのような精神的な余裕がなかったがゆえに。

私たち兄弟はよく友人を家に連れてきた。

彼女は私たちが学校の事や女の子の事、男の子の事、私たちが話す様々な事を聞いていた。

彼女は私たちの会話をただ立ち聞きしていただけで、私が6年生から高校までフラれた

すべての女の子の名前を挙げることができたのにはまいった。

そして私が15歳の時、父は家族から去っていった。

私は当時それを信じたくなかったが、父が私たち子供を捨てて、

25年の結婚生活の後に母を捨てたという事実だけがそこにあった。

母はその時点で正式な医師になるまであと1年を要しており、

また彼女の専門分野である内科医は特に儲かる仕事ではなく、

さらに父は養育費を払わなかったので、お金のやりくりはいつも大変だった。

母は仕事に行ける程度には気持ちをしっかり保っていたが、夜は自己憐憫と絶望で崩壊した。

この時期の母の慰めとなったのはローラだった。

母が小さなことで彼女にきつく言う度に、ローラはより かいがいしく母の世話をした。

母の好きな料理を作り、母のベッドルームをより丁寧に掃除した。

夜遅くにキッチンカウンターで母がローラに愚痴をこぼしたり、父のことについて話したり、

時には意地悪く笑ったり、父の非道にを怒ったりしていたのを何度も目撃した。

ある夜、母は泣きながらローラを探しリビングルームに駆け入り、彼女の腕の中で崩れ落ちた。

ローラは、私たちが子供の頃にそうしてくれたように母に穏やかに話しかけていた。

私はそんな彼女に畏敬の念を抱いた。

“母と私は一晩中言い争った。 お互い泣きじゃくっていたが、私たちはそれぞれ全く違った理由で泣いた。

” 私の両親が離婚してから数年後、私の母親は友人を通して知り会った

クロアチアの移民イワンという男性と再婚し母はローラに対し新しい夫にも忠誠を誓うことを要求した。

イワンは高校を中退し過去4回結婚しているような男で、私の母の金を使いギャンブルに興じる

常習的なギャンブラーだった。

だがそんなイワンは、私が見たことのないローラの一面を引き出した。

彼との結婚生活は当初から不安定であり、特に彼が母の稼いだお金を使い込むことが問題となっていた。

ある日、言い争いの末に母が泣きイワンが怒鳴り散らしていると、

ローラは歩いて両者の間に立ちふさがった。 彼は250ポンド(約113kg)の大柄な男で

その怒鳴り声は家の壁を揺らすような大きさだった。 だがローラはそんなイワンの正面を向き、

毅然とした態度で彼の名前を呼んだ。 彼は面食らったような顔でローラの顔を見た後、

何か言いたそうにしながらも側の椅子に座った。

そんな光景を何度も目撃したが、ローラはそんほとんどにおいて母が望んだとおり

イワンに粛々と仕えていた。

私は彼女のそのような様を、特にイワンのような男に隷属する様を見るのがとても辛かった。

だがそれ以上に私の感情を高ぶらせ、最終的に母と間で大喧嘩に発展させたのはもっと”日常的”なことだった。

母はローラが病気になるといつも怒っていた。 ローラが動けないことで生じる混乱と

その治療にかかる費用に対処することを望んでいなかった母は、ローラに対し嘘を言っているのだろうと、

自分自身のケアを怠った結果だと非難した。

そして1970年代後半にローラの歯が病気によって抜け落ちた時も母は適切な対処を拒んだ。

ローラは何ヶ月も前から歯が痛いと言っていた。

「きちんと歯を磨かないからそうなるんでしょ」母は彼女にそう言った。

私は彼女を歯医者に連れていかなければならないと何度も言った。

もう50代になる彼女はこれまで一度として歯医者に行ったことがなかった。

当時私は1時間ほど離れた大学に通っており家に帰るたびにそのことを母に言った。

ローラは毎日痛み止めのためのアスピリンを服用し、

彼女の歯はまるで崩れかけたストーンヘンジのようになっていた。

そしてある晩、ローラがかろうじてまともな状態で残っていた奥歯でパンを必死に噛んでいる様を見て、

私は怒りのあまり我を失った。

母と私は一晩中言い争った。 お互い泣きじゃくっていたが、私たちはそれぞれ全く違った理由で泣いた。

母は家族を支えるために身を粉にして働いているのに子供たちがいつもローラの味方をすると、

ローラなんてどこかへやってしまえばいいと、そもそも自分は最初から彼女を欲しくはなかったと、

そして私のような思いあがり聖人ぶった偽善者なんて産まなければよかったと、まくしたてた。

私は母の言葉を反芻して、そして言い返した。 偽善者なのは誰か自分が一番わかっているはずじゃないか、

母の人生こそが見せかけのようなものだったじゃないか、自己憐憫に浸ってばかりいるのを

ほんの一瞬でも止めればローラがまともに食事をできていないことに、

彼女の歯が腐り落ちていることにも気づいたはずだ。

どうしてたった一度でも、彼女を自分に尽くすためだけに存在している奴隷としてではなく

一人の人間として見てあげることができないんだ。

「奴隷?」母はその言葉を噛み締めながら、「奴隷ですって?」そう繰り返した。

母は彼女とローラの関係は私には絶対に理解できないと言い放ちその晩の言い争いを終わらせた。

“絶対に” そうしわがれた声で、苦痛や悲しみのようなものが混じった声で放った母の言葉は

今でも、あの時からかなりの時を経た今でも、思い出すたびに腹を殴られたような気分にさせられる。

自分の母を憎むのは最悪なことだがその晩私は母を憎んだ。

そしてその時の母の目は、母も同様に私を憎んでいたことをうかがわせた。

その大喧嘩はただ母のローラに対する恐怖を、子供たちを奪われるという恐怖を増幅しただけだった。

そして母はそのつけを支払わせようとより一層ローラにつらく当たった。

「”あなたの” 子供たちが私を嫌うようになってさぞかし嬉しいでしょうね。 」

母はそう言ってローラを責め、苦しめた。 私たちがローラの家事を手伝うと母は憤り

「ローラ! ...もう寝たほうがいいんじゃないの?」と皮肉を言った。

「働きすぎよ。 “あなたの” 子供たちが心配してるわ。 」そう言って寝室へローラを呼び出すし、

しばらくすると目を腫らした彼女が出てくる、そんなことが続いた。

そしてついにはローラから自分の手助けをしないでほしいと懇願されるようになった。

“なぜここに居続けるの? 逃げようとは思わないの?” 私たちはそうローラに尋ねた。

「誰が料理をするんですか?」と彼女は答えた。

そこには誰が子供たちの世話をするのか? 誰が母の世話をするのか? 誰がその他すべてをするのだと、

そういった意味が込められているのを察した。

そしてまた別の時には「逃げるところなんて私にはありませんよ」と答えた、

それはより真実味のある言葉として私の中に刺さった。

米国への移住は慌ただしく、この国になじむために皆必死で息をつく間もなく10年が過ぎ去った。

そして気が付くと、さらに10年が経とうとしていた。 ローラの髪は白く変わっていた。

彼女は故郷の親戚たちが約束された仕送りが届かないのを不思議に思い、

彼女に何が起きたのかといぶかしんでいるということを人づてに聞いた。

彼女はもはや、そのことが恥ずかしく帰るに帰れなかった。

彼女はアメリカに知人もなく、家から離れた場所へ移動する手段も持っていなかった。

電話も彼女を戸惑わせた。

機械的なもの、ATMやインターホン、自動販売機、パソコン、それらは彼女をパニックに陥らせた。

彼女のつたない英語力は、早口な人の前では言葉を失わせ、逆に彼女が喋れば相手の言葉を失わせた。

彼女は予約をすることも、旅行を企画することも、記入用紙に書き込むことも、

食事を注文することも手助けなしにはできなかった。

私は自分の銀行の口座からお金を下ろせるキャッシュカードを彼女に与え

その使い方も教えたことがあるが、1度使ったきりで、2度目以降は動揺してしまい

それ以来試そうともしなくなった。 ただ彼女はそのカードを私からの贈り物として大切に保管してくれた。

私はまた車の運転を教えようとしたこともあった。 彼女は手を振ってそれを断ったが、

私は強引に彼女を抱き上げて車の運転席に座らせた。 私たちは大声で笑いあった。

その後20分ほどかけて操作方法やメーターの意味を説明しエンジンを始動させダッシュボードが点灯すると、

彼女のそれまでの陽気な雰囲気はどこかへ吹き飛び、彼女の眼には恐怖の色が宿った。

私が何かを言う暇もなく彼女は車から飛び出して家のなかへ逃げ込んでしまった。

その後も数回試してみたが結果は同じだった。

私はそれが、彼女が運転ができるようになれば彼女の人生が変わると思いそうした。

自らの力でどこへでも行けるようになれば、母との間で耐えきれないことが起きた時

どこかへ逃げることができると。

4つの車線が2つになり、舗装された道から砂利道に変わった。

三輪の自動車が道をかき分けるように進むのを眺めながら、

大量の竹を積んだ荷車を引く水牛を通り過ぎる。

時折犬や山羊が私の乗るトラックの前で道路を横切りバンパーに接触しそうになる。

私が雇った運転手は気を張り続け目的地へ急ぐ、今日仕事を終えられなければ残った仕事が

明日以降に先伸ばされるのだ。 私は地図を取り出し、目的地であるマヤントクの村へのルートをたどった。

窓の外には、まるで折れた釘のように、腰を折り曲げ何千年も前から変わらぬやり方で

米を収穫する人々が遠くに見えた。

到着まで、ローラの物語が始まった場所までもう少しだ。

私は彼女の遺灰が入った安っぽいプラスチック製の箱を軽くトントンとたたき、

磁器製かローズウッド製のちゃんとした骨つぼを購入しなかったことを後悔した。

ローラの家族や親族はどう思うだろうか、もうそう多くない彼らは。

その地に残っている唯一のローラの兄妹は98歳のグレゴリアで、

彼女はこの頃物忘れが激しくなっていると聞いていた。

親戚の話によると、彼女はローラの名前を聞くたびに感情を露わにして泣き出すが、

すぐになぜ泣いたのか忘れてしまうという。

(左) ローラと著者、2008年撮影。

(右) 著者とグレゴリア

image via theatlantic.com All photos courtesy of Alex Tizon and his family

私はローラの姪の一人と連絡を取っていた。

彼女は私が到着するその日、ささやかな追悼式を行い、彼女に祈り、

その後遺灰をマヤントクの共同墓地の一画に埋葬する予定を立ててくれていた。

ローラが亡くなってから5年の月日が経っていたが、私は最後のお別れをまだ済ませていなかった、

そしてその時は間もなく訪れようとしていた。 その日私は一日中激しい悲しみを感じ、

それを表に出すまいと必死にこらえていた。

私の家族のローラに対する扱いを恥じる気持ちよりも、

マヤントクで待つ彼女の親戚が私をどう迎えるかを心配する気持ちよりも、

胸を裂くような悲しみを、まるで昨日彼女を失ったばかりかのような喪失感と悲しみを私は感じていた。

やがて私たちの乗るトラックは名ばかりの高速道路から降りてカミリング川沿いを走りだした。

2つの車線が1つになり、砂利が泥道に変わった。

竹で造られた家々を通り過ぎ、やがて前方に緑の丘が見え始める。

そこはローラの、そして私の母と祖父の出身地だった。 いよいよ大詰めだ。

“母が亡くなる前日、司祭は母に赦しを与えたい、あるいは赦しを請いたいことはあるかと尋ねた。

母は半ば閉じられた目で部屋を見渡したが何も言わなかった。

” 母の葬儀で私が贈った弔辞はすべて本当の事だった。

彼女は勇敢で活発で、損な役割を担わされることもあったが彼女はできる限りのことをしたと。

彼女が幸せだった時、彼女は喜びに満ちた日々を送っていたと。

私たち兄弟に感謝してもしきれないほどの愛を注ぎ、

80年代と90年代にはオレゴン州のセイラムにこれまで私たちが持ち得なかった本当の

“我が家” を作ってくれたと。 もう一度 母に感謝したいと思っていたと。

私たちは皆母を愛していたと。 私が言ったすべては本当の事だった。

私はローラの事については話さなかった、母が晩年を迎えた時、彼女と接する時は

ローラのことを頭の中から消し、意識的に考えないようにしたのと同じように。

母を愛するためには、そのような精神的な手術が必要だった。

そのような歪な接し方が唯一私たちを母と子でいさせた。

私は母とはそういう関係でいたかった、特に90年代半ばに、母の健康が衰え始めてからは。

糖尿病、乳がん、急速に増殖する血液および骨髄の癌である急性骨髄性白血病、

母は一晩で健常から大病人へと転落していったかのようだった。

あの大喧嘩の後、私は23歳でシアトルに移り住み実家に帰ることを避けほとんど寄り付かなくなっていた。

だが私が久々に実家に帰省するとそこには変化が生まれていた。

母は相変わらず母のままだったがかつてほど容赦ない人ではなくなっていた。

母はローラに立派な入れ歯と彼女のためだけの寝室を与えていた。

私たち兄弟がローラの「逃亡者」という法的地位を変えようと動き出した時も進んで協力してくれた。

何百万人もの不法移民に合法的な滞在を許可するという画期的な移民法を

ロナルド・レーガンが1986年に通したのだ。

それは長い時間を要したが、母が白血病と診断されてから4ヵ月後の1998年10月、

ローラーは米国市民となった。 母が亡くなったのはその1年後だった。

母が亡くなるまでの間、母はイワンと共にオレゴン州の海岸沿いのリンカーン市を何度か訪れた、

時にはローラを連れだって。 ローラは海を愛していた、

その遠く離れた対岸に彼女が帰ることを夢見た島があったからかもしれない。

そしてローラは母がくつろいでいることを心から喜び幸せそうだった。

午後の海辺での時間は、昔のことを思い出しながら話すキッチンでのほんの15分ほどの立ち話は、

ローラの何年もの苦しみを忘れさせるようだった。

私はローラの苦難の日々を忘れることができなかったが、

それまで知らなかった母の一面も知ることとなった。

母は亡くなる前に、トランク2個にいっぱいに詰まった母の日記をくれた。

数フィート離れて眠る母の側で、私はその日記に目を通した。

それは私が何年も見逃していた、目を背けてきた彼女の人生の断片が垣間見させるものだった。

母は女性がそれを目指すのが珍しい時代に医学部に入った。

アメリカに来てからは女性として、移民医師として、その両方で尊敬の念を勝ち取るために奮闘した。

母は20年間、米国オレゴン州セーレムにある発達障害者のための州立機関である

フェアビュー訓練センターで働いていた。

皮肉なことに、彼女は職業生活の大半を弱者を救うために費やしたのだ。

患者らは母を敬い尊敬した。

同僚の女性たちと親しい友人になり、共に靴を買いに出かけたり、

互いの家で試着パーティーをしたり、ペニス型の石けんや半裸の男性のカレンダーのようなものを

送りあうギャグギフト交換をしたりしていた、そのいづれも皆で大いに笑い転げたという。

パーティーに移った母の写真は、彼女が家族やローラに見せる母としての姿とは別の人生と

アイデンティティを持っていたことがわかった、私は考えもしなかったがそれは当然のことだろう。

母はその中で私たち子供についても一人一人詳しく綴っていた、そして彼女が日々どう感じたかを。

子供たちを愛しく思い、誇りに思い、憤りを覚えた日々を。

さらに夫たちについては大量のページを使い記述していた。

母の中では彼らは複雑な性格の人物であり、それを理解しようと必死になっていたように思える。

誰もが重要な人として綴られていた。 だがローラだけは、母の物語において “付属物” でしかなかった。

ローラが言及されるのは、誰か別の人の物語における端役としてだけだった。

「今朝、ローラが愛する息子アレックスを新しい学校に連れて行った。

あの子に新しい友達がすぐにできてくれればと願っている、

もう何度目かになる引っ越しで寂しい思いをしているだろうから...」

それ以降も2ページ以上にわたりその当時の私のことが書かれていたが、

それ以上ローラに触れることはなかった。

母が亡くなる前日、カトリックの司祭が臨終の秘跡(病者の塗油とも、

危篤の者に”病者の聖油”を病者の五官に塗り,罪のゆるしと,

可能なら病気の治癒を祈る儀式)を行うために家に訪れた。

ローラは母のベッドの横に座り、ストローを差したカップを手に、

いつでも母に与えられるよう待機していた。 ローラはいつも以上に母を気遣い優しく接していた。

彼女は弱った母につけ込むことも復讐することもできただろうに、それとは逆の行動をとった。

司祭は母に赦しを与えたい、あるいは赦しを請いたいことはあるかと尋ねた。

母は半ば閉じられた目で部屋を見渡したが何も言わなかった。

それから、ローラを見ることなく、伸ばしたその手を彼女の頭に乗せた、一言も発さずに。

その後、ローラは私と暮らすようになった、彼女は75歳になっていた。

私は結婚し2人の娘を持ち森林地帯の居心地の良い家に住んでいた。

家の2階からはピュージェット湾を望むことができた。

私たちはローラに寝室を与え、彼女が望む通り好きにしてくれて構わないと伝えた。

昼寝をしてもいいし、ドラマを見てゆったりするもよし、一日中何もしなくてもいいと。

私はようやく彼女を、人生で初めてリラックスして自由になる時間を与えることができると思った。

だがそんな簡単に行くはずがないと、その人生のほとんどを奴隷として過ごしてきた彼女を

変えることは容易ではないと気づくべきだった。

著者に関する情報 Alex Tizon University of Oregon 2015 – cropped

(2).jpg By University of Oregon, School of Journalism and

Communication, CC BY-SA 4.0, Link アレックス・ティゾン

(Alex Tizon) Tomas Alexander Asuncion Tizon(1959年10月30日 – 2017年3月23日)は

フィリピン系アメリカ人作家でピューリッツァー賞を受賞したジャーナリスト。

シアトル・タイムズの記者として、彼と2人の同僚は連邦インディアン住宅局プログラムの不正に関する

5部構成のシリーズを報道、1997年にピューリッツァー賞 国内報道部門を受賞した。

2003年から2008年にかけてロサンゼルスタイムズのシアトル局長を務め、

その後もオレゴン大学ジャーナリズム・コミュニケーション校で教鞭をとるなどした。

彼の最後の作品は「私の家族の奴隷」と題されたもので、

The Atlantic誌の編集スタッフが2017年6月号のカバーストーリーとして掲載することを決めた日に

アレックス・ティゾンは亡くなった。

この作品はその内容から大きな議論を呼び起こした 主な受賞歴

: アンソニー・J・ルーカス賞、2011 国際ジャーナリズムフェローシップ、

2009年 ナイト・Iジェファーソン・フェローシップ、1998年 ピューリッツァー賞、

1997年 英語版wikipediaより “「私は父さんとはちがう。

君はこの家では奴隷じゃないんだ。

君は私たちに仕えるためにこの家に来たんじゃないんだよ。 」

「オーケー。 」彼女はそう言った。 そして清掃に戻った。

” 母が亡くなり、それまで母に尽くしていたローラを私は家に呼び寄せた。

だが私は彼女の、時にイラっとしてしまう厄介な一面を忘れてしまっていたことに気づかされた。

彼女は毎回のように私に風邪をひかないようセーターを着るように言ってきた、

すでに私は40歳を超えているというのにだ。

また彼女は私の父とイワンについて絶え間なく不平を言っていた、父は怠け者でイワンはヒルだと。

私は次第に彼女を無視する術を身につけるようになっていた。

だが彼女の異様な倹約ぶりは無視しにくかった、彼女は何も捨てたがらないのだ。

彼女は一時期ゴミ箱を漁って私たちが何かまだ役に立つものを捨てていないか確認していた。

彼女はペーパータオルですら水洗いして何度も何度も再利用した、ボロボロに崩れてしまうまで。

キッチンはスーパーの袋、ヨーグルトの容器、ピクルスの瓶で溢れるようになり、

我が家の一角は、他にどう表現しようもない、ゴミの貯蔵庫に変わった。

朝は大抵 家族全員が忙しくバナナやグラノーラ・バーぐらいしか食べないのだが

彼女は毎日朝食を作った。

彼女は毎日ベッドを整え、家族の洗濯物を洗い、家を掃除した。

「ローラ、君はもうそんなことをしなくていいんだよ。 」

「ローラ、それは私たちがやるからいいんだ。 」 「ローラ、それは娘たちの仕事だから。 」

彼女は「オーケー」と答えるのだが、決して仕事を止めようとはしなかった。

最初は、無意識に優しく言っていたのだが、彼女がキッチンで立ったまま食事を済ませている姿を、

私が部屋に入るとビクッと身をこわばらせ掃除を始めたりする姿を見ているうちに

私は段々と苛立ちを覚え始めた。

数ヶ月後のある日、私は彼女を呼び、椅子に座らせた。

「私は父さんとはちがう。 君はこの家では奴隷じゃないんだ。 」私はそう言うと

彼女がこの家でこれまでにやってきた大量の “奴隷的な振舞い” の一つ一つを挙げていった。

そして彼女が驚いた様子でこちらを見ていることに気がついた。

私は深呼吸をし、彼女の顔をそっと両手で包み、彼女の額にキスをした。

「ここはもう君の家でもあるんだ。 」私は言った。

「君は私たちに仕えるためにこの家に来たんじゃないんだよ。

もっとリラックスしてくれていいんだ、わかった?」 「オーケー。 」彼女はそう言った。

そして清掃に戻った。

彼女は、そうする以外どうしていいのかわからなかったのだ。

私はリラックスすべきなのは自分の方なのだと気付いた。

彼女が夕食を作っていたら、止める必要はない、そのまま任せればいい。

彼女に感謝し、私たちはその後の皿洗いなどをすればいい。

私は自分自身に絶えず言い聞かせなければならなかった、”ローラのしたいようにさせよう”

それからしばらく経ったある夜、私が家に帰るとローラがソファに座り、足を延ばし、

テレビをつけた状態でワードパズルをしていた。

彼女の脇にはカップに注がれた紅茶があった。

私に気づくと彼女は私の方を見て、真っ白な入れ歯を覗かせながら、すこしきまり悪そうに微笑んでパズルに戻った。 良い兆候だと私は思った。

そして彼女は家の裏庭でガーデニングを始めた。

バラやチューリップ、そしてあらゆる種類のランをそこに植え、午後はその世話をして過ごした。

彼女は近隣を散策するようになった。

ローラが家に来てから5年ほど経った、80歳近くになった彼女の関節は悪くなり

歩く時は杖を使うようになっていた。

かつてはファミリーレストランの下働きのようにキッチンに立ち続けていたが、

今は心が赴いた時だけその腕をふるう職人肌のシェフのようになっていた。

時折豪華な料理を作り、私たちがそれをガツガツと食べるのを見てにこやかな笑顔を見せながら喜んだ。

ローラの寝室のドアの前を通ると彼女がフィリピンの民謡のカセットを聴いているのをよく聞いた。

同じテープを何度も、何度も繰り返し聞いていた。

私は彼女がほとんどすべてのお金を故郷の親族に送金していたことを知っていた。

私と妻は彼女に週200ドル与えていた。

ある午後、私は彼女が裏庭のデッキに座りながら、故郷の村の誰かが送ってきたスナップ写真を

じっと眺めているのを見つけた。

「家に帰りたいと思うかい、ローラ?」 彼女は写真をひっくり返して、

そこに書かれた文字を指でなぞり、そしてまたひっくり返して写真の一点をじっと見つめた。

「はい。 」彼女はそう答えた。

彼女が83歳の誕生日を迎えた直後、私は彼女に家に帰るための飛行機代を渡した。

私はその1ヶ月後に彼女を迎えに行くつもりだった、彼女が米国に戻りたいと思うならの話だが。

彼女ははっきりとは言わなかったが、その旅の目的は彼女が長年戻りたいと焦がれてきた故郷が、

今でもまだ自分のあるべき場所のように感じられるかどうかを見極めることだった。

1か月後、彼女の故郷マヤントクの村を訪れる、彼女はその答えを見つけたようだった。

「何もかもが変わってしまっていました。 」村の周りを二人で歩いていると彼女はそう私に語った。

かつてそこにあった農場はなくなった、彼女の家もなくなった、彼女の両親も、彼女の兄弟のほとんども。

まだ生きていた子供の頃の友人の何人かは見知らぬ人のようだったという。

「彼らを見ることができて嬉しいですが... でもやっぱり何もかもが様変わりしています。 」

彼女は最後の時をここで過ごしたいと思っているが、まだ心の準備ができていないと言った。

「...君の庭に戻ろうか。 」私は言った。

「ええ、家に帰りましょう。 」

(左) 83歳の誕生日の後にフィリピンの故郷にしばらく滞在するため戻ったローラ。

(右)姉妹であるジュリアナと65年ぶりに再会するローラ。

image via theatlantic.com All photos courtesy of Alex Tizon and his family

ローラは私や私の兄弟たちが幼かった頃にそうしてくれたように、

私の娘たちに献身的に尽くしてくれた。

学校が終われば娘たちの話し相手になりお菓子を作ってくれた。

そして妻と私と違い(特に私)、彼女はあらゆる学校のイベントや発表会を、

その一時一時を楽しんでいた。

まだまだ楽しみたいとすら思っている様子だった。

彼女はいつも一番前に座り、それらのプログラムを記念品として大切に保管した。

ローラは些細なことで喜んだ。

家族の旅行に連れて行ったときはもちろん、家から少し丘を下ったファーマーズ・マーケットへ行った時も、

まるで子供が遠足に行ったときのように目を輝かせながら「まぁ、なんて大きなズッキーニ!」と

様々なものを見ては興奮し楽しんでいた。

彼女が毎朝最初にすることは家中のブラインドを開けることで、それぞれの窓でしばし立ち止まり、

そこから見える風景を眺めていた。

そして彼女は自らの力で字を読めるようになった、

それは学ぶ機会を与えられず晩年を迎えた彼女にとって一大事であり、私からしても驚くべきことだった。

長年をかけて彼女は必死に手紙を読む方法を学んだようだ。

彼女は文字がたくさん並んだものから単語を見つけ出し丸で囲むパズルをよくやっていた。

彼女の部屋にはそのワードパズルの小冊子が積まれていて何千という丸が鉛筆で描かれていた。

彼女は毎日ニュースを見て、新聞と照らし合わせて少しずつそこに書かれた意味を理解したという。

そして彼女は毎日新聞を最初から最後まで読むようになった。

かつて父は彼女を “バカ” だと言っていた。

だが今の彼女を見ていると、仮に彼女が8歳の頃から田んぼ仕事をせず

読み書きを覚えていたとしたらどんな人となっていたか、そんなことを考えてしまった。

“「ローラ、君はセックスをしたことがある?」私は、まるで誰か他人が言ったのを聞いたように、

そう質問する自分の声を聞いた。

” 82歳当時のローラ image via theatlantic.com All photos courtesy of Alex Tizon and his family

ローラは12年間私たちの家で暮らした。 私はよく彼女自身のことを質問した、

私が知っている彼女だけでなく、彼女自身の口から語られる言葉を聞き、

その人生を知るために。 彼女はそんな私の習慣を不思議がっていた。

私の質問に彼女はしばしば「なぜ?」とまず答えるのだった。

なぜ自分の子供時代について知りたいのか、なぜ私の祖父と初めて出会った日のことを聞くのかと。

私は妹のリンに頼んでローラの人生における恋や愛の話を聞かせてもらうよう頼んだことがある、

私が質問するよりも彼女の方が答えやすいだろうと思ったのだ。 だがそんなお願い事をすると

妹はケラケラと笑った、要するに、協力する気はないということだ。

ある日ローラと私がスーパーで買った食料品をしまっている時に、私はついこんな質問をしてしまった。

「ローラ、君は誰かとロマンチックな経験をしたことはあるかい?」

彼女は微笑んで、彼女が唯一持つ異性との話を私に語った。

彼女が15歳くらいの頃、近くの農場にペドロというハンサムな男の子がおり

数ヶ月間彼らは一緒に米を収穫したという。 そして一度、彼女はその作業に使っていた

ボロという農具を手から落としてしまったことがあり、彼はすぐにそれを拾い上げ手渡してくれた。

「私は彼が好きでした。 」ローラはそう言った。

しばらく、お互い黙ったままで 「それから?」 「彼はその後すぐに立ち去ってしまいました。 」

「それから?」 「それだけです。 」 「ローラ、君はセックスをしたことがある?」

私は、まるで誰か他人が言ったのを聞いたように、そう質問する自分の声を聞いた。

「いいえ。 」彼女はそう答えた。

彼女は個人的な質問に慣れていなかった。

彼女は私の質問に1つまたは2つの単語で答えることが多く、

単純な物語でさえも引き出すには何十もの質問が必要だった。

私はそれらの質問を通してそれまで知り得なかった彼女の一面を知った。

ローラは母の残酷な仕打ちにはらわたが煮えたぎる思いをしたが、

それにもかかわらず母が亡くなったことを悲しく思っていたことを知った。

彼女がまだ若かった頃、時々どうしようもなく寂しさを感じ泣くことしかできなかった日が

何度もあったことを知った。

何年も異性と付き合うことを夢見ていたことを知った、私は彼女が夜に大きな枕で抱かれるように

包まれた状態で寝ている光景を目撃したことがある。

だが老後の今、私に語ってくれた話によると、母の夫たちと一緒に暮らすうちに独り身でいることは

それほど悪くないと思ったという。

彼女はその二人、父とイワンについては全く懐旧の情に駆られないそうだ。

もしかしたら、彼女が私の家族に迎えられることなく故郷マヤントクで暮らしていたら、結婚し

、彼女の兄妹のように家族を持っていたら、彼女の人生はより良いものになっていたかもしれない。

だがもしかしたら、それはもっと悪いものになっていたかもしれない。

ローラの2人の妹、フランシスカとゼプリャナは病気で亡くなり、

兄弟であるクラウディオは殺されたと後に聞かされた。

そんな話をしているとローラは、今そんな “もし” の話をして何になるのかと言った。

“Bahala na” が彼女の基本理念だった。

bahalaの本来の意味は「責任」。

フィリピン人の性格を表現する時によく使われる「Bahala na(バハーラ ナ)」

:何とかなるさは、「Bahala na ang Diyos(バハーラ ナ アン(グ) ジョス)」

:神の責任である→神の思し召しのままに→運を天にまかせよう、というところから来ている。

「Bahala」自体はそんないい加減な意味の表現ではないので注意が必要。

フィリピン語(タガログ語) Lesson 1より

http://www.admars.co.jp/tgs/lesson01.htm ローラは彼女が送ってきた人生は

、家族の別の形のようなものだったと語った。

その家族には8人の子供がいた、私の母と、私とその4人の兄弟、そして今共に過ごす2人の私の娘だ。

その8人の子供たちが、自分の人生に生きた価値を作ってくれたと、彼女はそう言った。

私たちの誰もが彼女の突然の死に準備ができていなかった。

“彼女は当時字を読めなかったが、とにかくそれを取っておこうとしたのだ。

” ローラは夕食を作っている最中に台所で心臓発作を起こし、その時私は頼まれた使いに出ていた。

家に戻り倒れている彼女を見つけた私はすぐさま病院に運んだ。

数時間後の午後10時56分、病院で、何が起きているのか把握する前に彼女は去ってしまった。

すぐに全ての子供たちと孫たちがその知らせを受け取ったが、どう受け止めていいかわからない様子だった。

ローラは11月7日、12年前に母が亡くなった日と同じ日に永眠した。 86歳だった。

私は今でも車輪付き担架で運ばれる彼女の姿を、その光景を鮮明に思い出せる。

ローラの横に立った医師は この褐色の子供くらいの身長の女性がどんな人生を歩んできたか

想像もつかないだろうと思ったのを覚えている。

彼女は私たち誰もが持つ利己的な野心を持たず、持てなかった。

彼女の周りの人々のためにすべてをあきらめる様は、私たちに彼女に対する愛と絆と尊敬をもたらした。

彼女は私の大家族の中で崇敬すべき神聖な人となっていた。

屋根裏部屋にしまわれた彼女の荷物を解く作業には数ヶ月かかった。

そこで私は、彼女がいつか字を読むことができるようになった時のために保管しておいた

1970年代の雑誌のレシピの切り抜きを見つけた。

私の母の写真が詰まったアルバムを見つけた。

私の兄弟姉妹が小学校以降獲得した賞の記念品も見つけた、そのほとんどは

私たち自身が捨たもので彼女はそれらを “救いあげて” くれていた。

そしてある日、そこに黄色く変色した新聞の切り抜きが、私がジャーナリストとして書いた記事が

大切に保管されているのを見つけ、泣き崩れそうになった。

彼女は当時字を読めなかったが、とにかくそれを取っておこうとしたのだ。

竹と板でできた家々が並ぶ村の中央にある小さなコンクリートの家に私を乗せたトラックが止まる。

村の周囲には田んぼと緑が無限に広がっているようだった。

私がトラックから出る前に人々が家の外に出てきた。

運転手は座席をリクライニングにして昼寝を取りはじめた。

私はトートバッグを肩に掛け、息を呑み、ドアを開けた。

「こちらです」 柔らかい声で、私はそのコンクリート製の家へ続く短い道に案内された。

私の後を20人ほどの人が続く。 若者もいたがその多くが老人だった。

家に入ると、私以外の人たちは壁に沿って並べられた椅子とベンチに座った。

部屋の中央には何もなく私だけが立っていた。 私はそのまま立ちながら私のホストを待った。

それは小さな部屋で暗かった。 人々は待ち望んだ様子で私を見ていた。

ローラの墓 image via theatlantic.com All photos courtesy of Alex Tizon and his family

「ローラはどこですか?」 隣の部屋から声が聞こえ、

次の瞬間には中年の女性が笑顔を浮かべこちらに向かってきた。

ローラの姪、エビアだった。 ここは彼女の家だった。

彼女は私を抱きしめて、「ローラはどこですか?」と言った。

私はトートバッグを肩から降ろし彼女に渡した。

彼女は笑顔を浮かべたままそのバッグを丁寧に受け取り、木製のベンチに向かって歩みそこに座った。

彼女はバッグから箱を取り出しじっくりと眺めた。

「ローラはどこですか?」 と彼女は柔らかく言った。

この地域の人々は愛する人を火葬する習慣がなかった。

彼女は、ローラがそのような形で帰ってくることを予想していなかった。

彼女は膝の上に箱を置き、その額を箱の上に置くように折れ曲がった。

彼女はローラの帰還を喜ぶのではなく、泣き始めた。

彼女の肩が震え始め、泣き叫び始める。

それは私がかつて聴いたローラの嘆き悲しむ声と同様の悲痛な叫び声だった。

私はローラの遺灰をすぐに彼女の故郷に返さなかった、これほど彼女を気にしていた人がいたことを、

このような悲しみの嵐が待ち受けていることを想像していなかったのだ。

私がエビアを慰めようとする前に、台所から女性が歩み寄り彼女を抱きしめ共に泣き始めた。

そして部屋が嘆き声の轟音で包まれた。 目の見えなくなった人、歯が抜け落ちた人、

皆がその感情をむき出しにすることをはばからず泣いた。 それは約10分続いた。

気づけば私も涙を流していた。 むせび泣く声が止み始め、再び静寂が部屋を包んだ。

エビアは鼻をすすりながら、食事の時間だと言った。 誰もが列を成してキッチンに入る。 誰もが目を腫らしていた。 そして急に顔を明るくして、故人について語り合い、故人を偲ぶ準備を始めた。

私はベンチの上に置かれた空のトートバッグをチラリと見て、

ローラが生まれた場所に彼女を戻すことが正しいことだったと実感した。

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【歴史の隠された真実】あるフィリピン人奴隷の一生


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