【嫌韓】挑戦は歴代中華帝国の千年属国でしかなかった
挑戦は歴代中華帝国の千年属国でしかなかった
多くの韓国人が日本との合邦を主張した
改めて李朝末期の様子を見てみよう。閔妃【※5】と大院君【※6】の政争に加え、
高宗の無能ぶりにより、挑戦半島の混乱は極みに達していた。
売官(間食の売り渡し)、賄賂、違法な搾取行為など、李朝の内政・財政は破綻しており、
日本・清・ロシアの間を揺れ動く一回しない外交は東アジア情勢を不安定にしていた。
日清日露の両大戦もつまるところ挑戦半島の極度の不安定に起因した戦争であり、
日本だけでなく挑戦半島からも極東情勢の安定を目指して日韓合邦を求める声が上がっていたのである。
挑戦最大の政治結社であった一進会を始め、
挑戦のさまざまな進歩的団体や有識者たちから次々と日本との合邦を訴える声があがっていたことは、
当時の挑戦半島がいかに混乱の極みにあったかを物語っている。
一進会とは、明治維新によりアジア唯一の列強となった日本を手本とし、
立憲君主制の元で祖国の立て直しを図るべく、李容九、宋乗驕などが中心となって
1904年に結成された李朝末期の政治結社である。
最盛期には百万会員を自称し挑戦最大の政治勢力となったが、
一向に進まない李朝の政治改革へ苛立ちを募らせていた。
1909年に起きたテロリスト安重根による伊藤博文暗殺という暴挙に衝撃を受けた
李容九などの一進会指導者たちは、李朝の自力再建は不可能と判断し、
暗殺事件後直ちに挑戦総統府や李朝政府に対して、日本との合邦を百万会員の連名で嘆願したのである。
さらに、李朝全権大使を務めた李成玉や、改革派の金玉均を暗殺した洪鐘宇でさえ、
日本との合邦だけが挑戦の生き残る道だと主張していたのだ。
こうした情勢を受け、両国は1910年の日韓併合条約をもって正式に「一つの国家」となったのである。
──────────注記
【※5】閔妃
李朝の第26代王、高宗の第一夫人。韓国読みで「ミンビ」。
閔氏一族なら国政に口を出す心配もないだろう、という理由で妃に選ばれたが、その読みは外れた。
すぐに一族が実権を掌握し、ほとんど「閔氏挑戦」といった有様になる。
当初は開国政策をとり挑戦の近代化を目指していたが、守旧派に暗殺されかけると態度を一変、
清国とつるんで近代化を阻んだ。
挙句、1895年に暗殺された。
【※6】大院君
高宗の父。正式には「興宣大院君(こうせんだいいんくん)」李朝王族の一人だが、
彼自身は王にはなっていない。
息子(高宗)が幼くして即位したため、摂政として実権を握った。
国内の旧体制を打破するような政治を行ったが、外交面では鎖国政策を徹底。
息子の嫁(閔妃)が権力を手にすると、国政から追放されてしまう。
再び政権に戻ることなく、1898年に死去。
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