1970年代、中国初めて海上で戦線を開き、それまで陸地中心の大陸国家から
脱却する重要な一歩を踏み出すことになる。
1974年、中国は、当時弱体化していた南ベトナムから南シナ海の西沙諸島
(英語名パラセル諸島)を奪い取った。
周恩来首相自らが計画したこの攻撃のために中国は小型砲艦と部隊を派遣し、
南ベトナムが領有権を主張していた島々を占領した。
小型船舶4隻で島々を奪還しようとするベトナム軍部隊に対して中国は、
ミサイル搭載軍艦の大艦隊と精密爆撃による中国版「衝撃と畏怖」作戦
(2003年のアメリカの対イラク作戦名)で応戦した。
当時、ニクソン政権下のアメリカは中国との関係改善に首までどっぷりつかり、
ベトナム戦争の泥沼から抜け出そうと必死にもがいていた。
その結果、中国を怒らせることを恐れたアメリカは南ベトナムへの援助を拒んだ。
兵士の数でも装備の点でも中国に劣る南ベトナムには、
撤退以外の選択肢は残されていなかった。
西沙諸島の戦いはアジア史の中ではほんの小さな出来事だが、
これは、アメリカの介入がなければ中国はその軍事力でアメリカの弱小同盟国を
圧倒することを明確に示した例だと言える。
1979年、中国は数十万の大群と数百台の戦車によってベトナムに電撃的に進行し、
かつての同盟国に対する攻撃のハットトリックを完了した。
とは言え、これは実は十分に予想可能な事態だった。
歴史的に見れば中越は何世紀もの間敵対関係にあったのだし、
ベトナムは当時、今や中国の不倶戴天の敵となったソ連と強固な同盟関係を結んでいたからである。
中越戦争は、期間は短かったが戦死者の数が非常に多かった。
1ヶ月足らずの間に中国が失った兵士の数は、アメリカ10年以上にわたるベトナム戦争で
失った兵士の数よりも多かったかもしれない(6万人以上に上ったと言われている)。
しかし、中国軍とベトナム軍の軍事衝突はこれが最後ではなかった。
1988年、中国は今度は南沙諸島(英語名スプラトリー諸島)の領有権を主張したことから、
中国軍とベトナム軍が再び衝突することとなった(スプラトリー諸島海戦)。
ブルネイからもフィリピンからもマレーシア領ボルネオからもベトナムからも
近い場所でも900キロ以上離れている、戦略上重要な海域に位置
にする諸島は、中国本土からは、1番近い場所でも900キロ以上離れている。
中国がファイアリークロス礁に監視所を建設し、
「歴史的に中国固有の領土」として南沙諸島の領有権を主張しようとしたのを受け、
ベトナムはその海域に武装船を発見して対抗した。
近くのジョンソン南礁に上陸した軽武装のベトナム兵は、中国の侵略に抗議して
ベトナム国旗を掲揚した。
これに対して中国の軍艦はベトナム兵に大口径の高射砲を向け、60名以上を殺害した。
この虐殺の後、中国はケナン礁とヒューズ礁を含む南沙諸島の6島を実行支配下に置いた。
その後も中国は南沙諸島で領土拡大路線を取り続け、
1994年にはフィリピンからミスチール礁を奪取した。
フィリピン海軍が通常のパトロールを行えないモンスーンの時期を狙って、
中国海軍がみミスチーフ礁にこっそり入り込み、複数の構造物を建設してしまったのである。
フィリピンの政治指導者らは、この行為を「卑劣な侵略」だとして激しく非難した。
この時点でフィリピンは軍事介入を行い、これを阻止しようとすることもできたはずである。
だが、1970余年の南沙諸島の戦いや1988年のスプラトリー諸島海戦で中国軍が
ベトナム軍に対して行った残虐行為を見てきたため、
装備の劣るフィリピン海軍は中国との戦いに後ろ向きだった。
こうして、中国のミスチーフ礁実効支配は速やかに既成事実と化した。
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