半日韓国人撃退マニュアル Archive

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【嫌韓】【侵略・植民地支配を謝罪しろ】 08

【侵略・植民地支配を謝罪しろ】 08

──────────妄言

挑戦人を日本本土へ強制連行した

多くの挑戦人を強制連行し、奴隷として酷使した!

☑︎日帝は何百万もの挑戦人を強制連行した!

☑︎挑戦人をかり集め、強制的に日本へ送った!

☑︎挑戦人は炭鉱や鉱山で奴隷として酷使された!

日帝は軍隊の力で何百万人もの挑戦の民衆を狩り集めて日本へ強制連行し、強制労働に従事させた。

奴隷として極限まで酷使され、働けなくなった挑戦人たちを待っていたのは、日帝軍隊による大虐殺だった!

強制連行と言うアウシュビッツに匹敵する国家犯罪について、日本人は永遠に我ら韓国人に謝罪し続けなければならないのだ!

———————————真実

日本への渡航、就労を望んだのは挑戦人自身だ!

☑︎徴用(=強制連行)は日本国民の義務

☑︎日本は渡航制限を設けて挑戦人の流入に対処

☑︎炭鉱、鉱山の求人に挑戦人応募者が殺到

徴用は日本国民の義務であった

韓国人が「アウシュビッツに匹敵する国家犯罪)として非難して止まない「強制連行」だが、

これは正しくは「徴用」【※1】のことである。

「強制連行」とは、悪いイメージを植え付けるために、戦後になって挑戦人が作った造語である。

徴用は1938年に成立した国家総動員法【※2】に基づき1939年に発令されたものであり、

戦時下の日本国民に課せられた義務であった。

これによって多くの国民が軍需工場などに動員されたのだった。

挑戦半島は日本の1部であり、挑戦人は日本国民だったので、

挑戦に徴用が適用されることに何の問題もなかったが、

当初は日本本土や台湾などでしか適用されなかった。

しかし戦局の悪化により労働力が不足し、戦争末期にはついに挑戦でも徴用が行われるようになった。

挑戦半島に徴用が適用されたのは1944年9月から、

下関と釜山を結ぶ関釜連絡船の運行が停止した1945年3月までの7カ月間だけであり、

この間に日本へ渡った挑戦人は約22万人であった。

確かにこの22万人は国家の強制力の下で動員されたが、

徴用は当時の日本国民すべてに課せられた義務である。

しかし先に述べたように、挑戦半島で徴用が行われるようになったのは、

日本本土などより五年も遅かったのだ。

むしろ挑戦人は「優遇」されていたと言って良いのではないだろうか

!!日本や台湾より優遇されていた挑戦

──────────注釈

【※1】徴用

国家が国民に労働を課すること。

国家総動員法第四条を受け、1969年に国民徴用令が制定された。

徴兵時の赤紙招集と異なり、徴用者には白い紙が渡されていた。

【※2】国家総動員法

1939年の日中戦争勃発を受け、戦争継続のために労働力、

資源を国家が統制すべく、1938年に公布された。

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【嫌韓】糞尿まみれの挑戦を救った日本の衛生政策

糞尿まみれの挑戦を救った日本の衛生政策

李朝時代に人口増加が起こらなかった原因の1つが、今も続く挑戦民族の不潔不衛生の伝統である。

李朝末期に挑戦半島を訪れた日本人の証言として、

細井肇の「漢城の風雲と名士」(「政治史」第77巻、豚犬的生活五より)から引用してみよう。

「韓国内地を旅行すれば、路傍や街路中に累々たる黄金の花(注:人糞の比喩)が

場所も構わずにあちらこちらに咲き乱れていて、足の踏み場もなく

潔癖な人は一目その不潔さと臭気のひどさに驚くのである。

(中略)現に、この国の中央都会である京城(ソウル)のような、「韓国の帝都」と言われる都市

でさえ至るところに人糞や牛馬糞を見ない事はなく、

あたりに漂う恐ろしいほどの臭気は人の鼻を襲い目を顰蹙めない人はいない。

さらに京城市内を流れている川には、そこに隣接する各家々から排泄される糞尿が混じり、

川の水は黄金に染まり、ドロドロとなっているなど目も当てられない光景であるが、

韓国人はその水を洗濯に使っている。

全く以てとんでもない話である。

毎年夏期になると京城では伝染病が流行し、その伝染病にかかる患者のほとんどが韓国人であり、

大流行時には何千人もの患者を出すことも珍しくは無い。

挑戦人の生活がいかに不潔であったかについては、

他にもイザベラ・バードの「挑戦紀行」などに詳しく紹介されているが、

こういった状況から挑戦半島では赤痢、コレラなどの伝染病が度々蔓延し、

免疫力の弱い幼児などが数多く命を失っている。

併合後、この幼児死亡率を劇的に低下させたことが、半島での人口増加現象の主要因の1つであり、

それは日本による近代医療の導入、挑戦人への保健衛生の徹底によるものだった。

併合に先立って統監府は1909年に慈恵医院の官制を発布し、

さらに併合後に設立された大韓医院(後の京城大付属病院、

現在はソウル大学附属病院)は挑戦半島の近代医学、医療発展の中心的存在となった。

また、併合初年から総督府は近代的な防疫、検疫を挑戦で初めて実施し、

コレラ、天然痘、ペストは1918年から1920年を最後に撲滅された【※3】

さらに天皇陛下からの下賜金によって各地に済生会(病院)が設置され、

各道から市町村に至るまで医療制度が整った。

それまで1部の特権階級しか受けられなかった近代医療が、一般民衆も受けられるようになり、

多くの命が救われたのである。

挑戦半島の人口が増えたのは、こうした日本による挑戦半島近代化の賜物なのである。

!!日本は挑戦人に衛生観念を教育し、近代医療を与えた。

【※3】

1948年の独立後、再び赤痢やこれらのなどの伝染病が流行するようになり、

現在も毎年夏になるとたびたび赤痢が流行している。

「日帝による過酷な支配」がなくなった途端、この有様である。

真実

近代化と衛生教育によって挑戦人の人口は倍増した。

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【嫌韓】【侵略・植民地支配を謝罪しろ】07

【侵略・植民地支配を謝罪しろ】07

日帝は罪なき民衆の命を奪った

──────────妄言

日帝は挑戦人を拷問・大量虐殺して民族抹殺を図った!

☑︎挑戦民族を凄惨な拷問にかけて虐殺した。

☑︎民族抹殺を図り、挑戦人を大量虐殺した!

☑︎挑戦の都市はとても衛生的で美しかった!

日帝は文化的・精神的にだけでなく、物理的にも挑戦民族の抹殺を図った。

多くの罪なき挑戦民族を、残虐な拷問にかけて殺していった!

日帝軍隊と官憲による大量虐殺によって、挑戦民族は絶滅寸前にまで追い込まれたのだ!

さらに日帝の暴政によって李朝時代には美しく衛生的だった都市も荒れ果て、

見るも無残な状態になってしまった!

──────────真実

虫けら扱いだった挑戦の民衆を救ったのは日本

☑︎民衆を虫けら扱いした残忍非道な李朝社会

☑︎挑戦半島の人口を倍増させた日本の善政

☑︎糞尿まみれの挑戦を救った衛生保護政策

──────────

民衆を虫けら扱いした残忍な李朝社会

民衆を虫けら扱いした残忍非道な李朝社会

李朝末期の社会は腐敗の極みにあり、民衆を虫けら同然に扱う残忍非道な両班の横暴や、

売官、贈賄が起こす社会に対して多くの挑戦人たちが苦しみにあえいでいた。

司法はまともに機能しておらず、特権階級の非道を合法化するために存在していているのも同然だった。

当時の挑戦を訪れた欧米人たちが書き記した各書籍からも、

李朝末期の崩壊した挑戦社会の様子を伺い知ることができる。

ホーマー・ハルバート【※1】の「挑戦亡滅」では、「(裁判は)金次第でどうにでもなり、

多額の金を提供するか、裁判官を畏怖させるほどの有力者を後ろ盾に持っていることを

見せつけるかした方が、必ず有利な判決にありつける事は、世間一般の常識」と書かれている。

またフレデリック・アーサー・マッケンジー【※2】の「挑戦の悲劇」でも「監獄は呪詛の的であり、

拷問は自由に行われ、周期的な監獄清掃では、一時に数十名の囚人が絞首刑にされてしまい、

裁判は売買された。」と書かれている。

李朝末期の挑戦は、挑戦半島を訪れていた欧米人たちに「人類社会全体への重大な挑戦である」

と言わしめるほど目を覆わわんばかりの惨状にあったのだ。

韓国天安市郊外に「民族独立記念館」と言う施設ある。

日本が行ったとされる様々な蛮行を蝋人形で再現するなど、広く韓国民に併合時代の

「日帝日程の暴虐と非道」を紹介することを目的としている。

実はここで展示されている「日帝の蛮行」のほとんどが、

李朝末期に欧米人たちが書き記した記録に出てくる、両班が民衆や被差別民に行ってきた残虐行為と

そっくりなのである。

つまり、韓国人たちは「日帝の蛮行」をでっち上げる際に、

元ネタとして李朝時代の挑戦人自身の残虐行為を参考にしたのである。

実際に日本が行ったのは、李朝時代の残虐な拷問の禁止と、白丁などの賎民選民、

被差別階級の解放、すなわち挑戦史上初の「奴隷解放」であった。

挑戦半島に「人権」と言う概念を初めて持ち込んだのは、間違いなく日本であった。

!!併合されるまで挑戦には人権など存在しなかった。

——————————注釈

【※1】ホーマー・ハルバート

米国人宣教師。

歴史学者。

韓国では、大韓帝国の国権回復運動に尽力した人物とされている。

【※2】フレデリック・アーサー・マッケンジー

カナダ人ジャーナリスト。

英「デイリー・メール」の特派員として1907年から韓国に2年間滞在。

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挑戦半島の人口倍増させた日本の善政

これまで述べてきたように日本は挑戦半島の近代化と発展のために多大な貢献をしてきた。

多くの韓国人は「日本はあらゆる手段を持って挑戦民族抹殺を図っていた」などと

本気で信じ込んでいるが、挑戦人の命を奪ったどころか、逆に併合期の挑戦半島では人口が激増しているのだ。

1910年から1945年までの35年間で、約2倍(1312万人→2512万人)に人口が増えており、

さらに平均寿命も24歳から45歳と20年以上も延びている。

人口増加だけではなく、平均寿命も延びていることから考えても、その原因は、

①幼児死亡率の低下

②摂取カロリー(食料)増加

③衛生状況の改善

④各種インフラ整備の充実、

などの挑戦半島の社会環境の改善にある事は明らかである。

ここまで説明すると、たいていの韓国人はこれまで教えられた事とのギャップから混乱状態に陥るが、

中には「人口が増えたとしても、それは日帝が奴隷を増やすために行ったこと」などと

苦しい反応を試みる愚かな韓国人もいる。

1人の人間を「奴隷」として使役できるまで育てるのに、どれだけの食料が必要だと思っているのか?

費用対効果と言う点で言えば、人間を育てて奴隷として使役するのは大変効率が悪い。

だからこそ欧米諸国は奴隷船を送り出し、アフリカ各地から奴隷を徴発したのである。

人口増加を可能にしたのは日本による半島近代化、日本の善政に他ならないのだ。

!!近代化政策により人口が増え、平均寿命も伸びた

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【嫌韓】併合後、劇的に増加した米収穫高

併合後、劇的に増加した米収穫高

挑戦総督府による農地改革などの農村振興運動の結果、

1910年の併合年には1000万石程度だった米収穫高は、

その18年後の1928年には170万石、1933年には1900万石に激増している。

穀物収穫量全体の推移を見ても、米収穫高と同じく倍増している。

このように挑戦総督府の農業政策によって、挑戦史上例を見ない収穫高を記録したのである。

収穫高が激増した挑戦半島では米は貴重な輸出品となった。

その主な輸出先は日本だったが、なんとこの「米の輸出」が、現在の韓国ではなぜか

「日帝による米の収奪」とされ、歴史教科書にも書かれているのである。

米の収穫が増加するのに比例して、輸出量も伸びていった事は数字にもはっきり表れている。

1910年に11万石だった日本への米輸出が、1928年には706万石、1933年には7,42万石となっている。

このような輸出の急増は、日本の米相場にも影響を与え、

昭和初期に1000万石の余剰米を出した日本政府は米輸入の制限を行い、

米の価格暴落を防ぐため挑戦、台湾の両総督府の間で米穀協議会を開かなければならないほどであった。

こうした状況の中で「日帝による米の収奪」など起こるわけもなく、

正当な貿易品として米が挑戦から日本に輸出されただけの話だったのである。

!!総督府の農業振興により半島の米収穫高は倍増

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そもそも収奪する資源が存在しない挑戦半島

李朝時代の挑戦半島の作業について見ていこう。

主な輸出品として、綿、タバコ、人参(挑戦人参)、唐辛子などが栽培されていた。

李朝期には砂金業が発達し、この金は対清貿易の決済にも使われていたが、

他国が狙うほどの大量の金を産出していたわけではない。

他には微量の低質な石炭がある位で、挑戦半島にはめぼしい地下資源は存在していなかった。

高麗時代に世界でその名を知られた高麗青磁【※3】は、

その伝統技法を李朝が途絶えさせてしまったため、完全に歴史から消え去っており、

現在伝わっているのは高麗青磁と比較して評価が低い李朝白磁【※4】)のみとなっている。

なお、高麗青磁については近年韓国で復活したが、まだまだまだまだ技術的に未解決の問題があり、

本物の高麗青磁には到底及ばない代物となっている。

李朝時代の挑戦半島の資源や産業は、この程度のものでしかなかった。

だから韓国人が喧伝するような「資源の収奪」をしようにも、

そもそも挑戦半島には奪うものなど存在していなかったのだ。

半島統治に関して収奪されたとすれば、それは挑戦人でなく日本人である。

日本が挑戦半島を統治下35年間、挑戦総督府は常に赤字経営だった。

挑戦総督府の年間予算は約2億円だったが、挑戦人からの税金で賄えたのは五千万円程度だった。

不足分のうち二千万円ほどは補充金として帝国議会が予算枠を設け、残りは日本の公債で補填したのである。

35年の間に日本から挑戦半島に投じられた公的資金の総額は、

現在のレートで現在のレートでで約80兆円にも上ると言われている。

また、都市整備費用は総督府の予算からではなく、すべて日本本土の予算から支出されている。

日本国民から集めた巨額の税金を挑戦半島に注ぎ込んで、

産業の育成、インフラの整備、農地改革、教育の普及を行い、

挑戦人に近代化の恩恵を与え続けてきたのが実態であった。

韓国人はその恩を感謝するどころか「日帝の資源収奪」「米を奪われた」などと

大嘘を並べて現在に至るまで日本を非難し続けているのである。

!!「収奪」されていたのは、むしろ日本人の方だった

──────────注釈

【※3】高麗青磁

中国の越州窯青磁の影響を強く受けて、挑戦半島南部の全羅南道康津地方で

11世紀ごろから作り始められた。

12世紀になると「翡色青磁」と呼ばれる独自の青磁を作り出すようになる。

しかし高麗が滅びると、李朝にその製法が伝承されることなく断絶してしまった。

【※4】李朝白磁

高麗時代に出現していた白磁は、李氏挑戦時代に入って完成。

中国の元末、明初の白磁の影響を受けている。

真実日本が実施した植林や農業振興を感謝しなさい

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【嫌韓】【侵略、植民地支配を謝罪しろ】 06

【侵略、植民地支配を謝罪しろ】 06

挑戦半島から資源を収奪した。

──────────妄言

強欲な日帝は挑戦半島から資源を収奪した!

☑︎日帝は森林を伐採して禿山だらけにした!

☑︎米を奪い、挑戦半島を飢餓地獄に陥れた!

☑︎挑戦半島からあらゆる資源を奪い尽くした!

資源に乏しい島国である日帝は、豊かな挑戦半島に目をつけ、侵略して植民地化したのである。

森林資源や食料など、ありとあらゆる資源が日帝によって奪い去られていった。

そのため山々は禿山となり、米を奪われた民衆は飢餓地獄に苦しむことになった。

多くの挑戦人が日帝の資源強奪で命を落としていったのだ!

──────────真実

資源などなかった挑戦に、日本が緑の緑の贈り物をした。

☑︎禿山だらけだった挑戦に緑を送った日本

☑︎総督府の農地改革で米収穫高が劇的に増加

☑︎そもそも収奪する資源が存在しない挑戦半島

禿山だらけだった挑戦に緑を贈った日本

19世紀末に挑戦を旅行したロシア人で、ぺ・エム・ジェロトケビッチの探検記「挑戦旅行記」【※1】には、

「どこまでいっても禿山と赤土ばかりで、草も全て燃料のために刈り取られている」など、

併合前の挑戦半島の風景が細かく描写されている。

イザベラ・バードの「挑戦紀行」にも同様に荒れ果てた挑戦半島の様子が紹介されている。

韓国人は「日帝時代の乱伐によって緑豊かだった国土が荒廃した」と主張しているが、

実際には併合前から挑戦半島は禿山だらけであったことがわかる。

李朝時代の挑戦には焼畑農業が多数存在した。

定住しない焼畑農民は、山林を焼き払い一定期間耕作すると他へ移ってしまう。

さらに冬季には燃料として大量の薪必要とされ、乱伐が繰り返されてきた。

乱伐された山に豪雨が降れば、表土は流出し、禿山となってしまうのは当たり前である。

そもそも挑戦半島は花崗岩大地の山岳国家であり、平地が少なく緑が育ちにくい。

であればこそ、本来なら緑を守るための文化が育たなければならないのだが、

常に目先の利益しか考えない挑戦民族の民族性からか、日本のような森の文化(森そのものを神域とし、

過度の伐採を慎み、緑を育てる文化)が生まれる事はなかった。

挑戦総督府は禿山だらけの挑戦半島の惨状を改善するべく、

併合翌年の1911年には「山林令」を公布し、緑化事業計画をスタートさせている。

森林は緑のダムである。

森林がなくなれば、降れば洪水、降らねば干ばつがとなって、農業生産は崩壊する。

治水の前に治山が必要というのが、寺内正毅【※2】(初代総督)の方針であった。

この方針に基づき、挑戦総督府は1911年から30年間で5億9000万本の植林を行った。

当時の挑戦全人口の一人当たり約25本と言う膨大な数である。

さらに造林事業分を加えれば、併合期間中に日本が挑戦半島で10億本以上もの植林事業を行っていたのだ。

しかし、戦争終結後に日本人が挑戦半島から引き上げるると、

挑戦人たちは再び無計画な伐採を繰り広げ、半島を禿山だらけにして、

日本からの「緑の贈り物」を台無しにしてしまったのだ。

それどころか、なんとその責任を日本になすりつけ、

「日帝が森林資源を収奪した!」などと主張しているのである。

ここまで恩知らずな民族は、世界的に見ても珍しいのではないだろうか?

現在でも韓国と北挑戦では禿山ばかりが目立つが、それらは「植林」の概念を持たない

韓国、挑戦人の乱伐の結果でしかない。

日本が資源を収奪したなど全くの虚偽捏造である。

!!日本は挑戦半島に10億本の植林を行った

──────────注釈

【※1】挑戦旅行記

平凡社(東洋文庫 547)挑戦踏査報告5編をおさめる。

社会構成、重大な政治事件から、過酷な庶民の生活や農業事情にいたるまで、

当時の悲惨な様子がいきいきと描き出される。

絶版。

【※2】寺内正毅

日本の陸軍軍人、政治家。

1910年挑戦総督府が設置されると、陸相を辞任して初代総督に就任。

後に第19代内閣総理大臣となる。

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【嫌韓】韓国人が糾弾する「日帝の呪いの鉄杭」の正体とは?

韓国人が糾弾する「日帝の呪いの鉄杭」の正体とは?

ここで土地問題に関連して「呪いの鉄杭」について考えてみたい。

まずは風水について簡単に説明しよう。

風水とは、大地の気脈と呼ばれる「気の流れ」を読み取り、

それを利用して国家安寧や個人の運気上昇などを図るものと言われている。

この気脈と山岳地帯が一致している場所を「龍脈」と呼び、

風水では国家の栄枯盛衰を司るものであるとされている。

漢城(ソウル)もまたそうした風水思想によって選定された都であり、北の白頭山から走って、

南の地に山に向かって流れている「龍脈」のちょうど真ん中、

挑戦半島の中心に相当する場所にソウルは位置しているらしい。

もともと風水は中国で生まれたものであるが、当時の挑戦人は中国人に劣らず風水を重視していたと言う。

そして現代の韓国人は、「挑戦半島の気脈の流れを断ち切り、韓民族の精気を断つため、

日帝は挑戦各地に「呪いの鉄杭」を打ち込んだ!」などと、とんでもない主張して日本を批判しているのだ。

これは少数のオカルトマニアが騒いでいるのではない。

金泳三【※3】政権時代には「歴史の立て直し」運動【※4】の一環として、

「挑戦半島の気脈を絶っている」鉄杭の除去作業業が韓国各地で大々的に行われているのだ。

この「呪いの鉄杭」の正体だが、実は挑戦総督府が土地調査の際に設置した、

ただの「測量標識」に過ぎないのである。

国家としての体をなしていなかった李朝時代には、まともな土地測量が行われた事はなく、

それがまた「隠田」などの不正を招く結果となっていた。

そこで挑戦総督府は、1910年から1918年にかけて200万円(現在のレートで約600億円)の費用かけて、

挑戦全土の土地測量を行わなければならなかったのだ。

目賀田種太郎【※5】を責任者に土地調査局が設置され、

挑戦全土の土地の土地所有者、価格、地形、坪数の調査、地図作成などが行われたのである。

李朝時代の土地面積を表す単位は「結」であったが、これは土地の収穫高によって租税の額を表すため、

土地面積が一定にならなかった。

このため挑戦総督府は当時の日本の面積単位である町歩制を導入して測量を行った。

その結果、すでに述べたように李朝時代の記録の倍近くに面積が増えたのである。

このような挑戦半島の近代化のために行われた土地調査を、反日教育の結果、

「日帝による挑戦半島の龍脈断ち」であると、多くの韓国人は信じているのである。

重ねて言うが、これは1部の異常者だけが主張しているのではない。

例えば韓国の全国紙「挑戦日報」でさえ、「(日帝は)“ 韓民族の精気を断つために

“高い山の頂上に鉄杭を打ち込んだ」(2004年2月17日付)などと報じているのだ。

そもそも長さ30センチ程度の鉄杭を打たれた位で流脈が絶たれると言うのなら、

現在の高層ビルの基礎工事で行う行われる地下何メートルもの杭で、

挑戦半島の「龍」とやらは息絶えてしまっているのではないだろうか?

!!挑戦総督府は半島史上初の正確な土地調査を行った

──────────注釈

【※3】金泳三

第14代大統領(在任1993年〜1998年)。

慶尚南道巨済島出身。

在任中に次男の金賢哲が斡旋収賄容疑で逮捕され、その後はレイムダック政権となってしまった。

【※4】歴史の立て直し

「日本統治時代に植民地史観を押し付けられ、民族の自尊心が傷つけられた。

自尊心回復のために「歴史の立て直し」をしなければならない」という運動。

【※5】目賀田種太郎

ハーバード大卒。

明治時代の傑出した官僚として有名。

財政顧問として挑戦に派遣され、挑戦近代化に多大な貢献をした。

専修大学の創設者の一人でもある。

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【嫌韓】挑戦農民を救った日本の土地行政

挑戦農民を救った日本の土地行政

日本は韓国併合後、挑戦半島の土地調査を行っている。

この調査事業を挑戦半島の土地強奪だったと主張する韓国人は多いが、

それは事実に反する主張である。

李朝時代における挑戦の土地はすべて国王の者、すなわち「公地公民」とされており、

国王以外の土地の所有は認められていなかった。

しかし李朝末期の腐敗横行によって綱紀は緩み、両班など1部の特権階級層には

私有地の所有が事実上認められるようになった。

また裕福な常民は私田収租権(個人に認められた収租権)得ていたが、

民衆の大半を占める農民のほとんどは土地を持つことができない農奴のような存在であった。

李朝末期の腐敗は土地管理制度にも影響及ぼしていた。

李朝によって耕作面積地として公式に記録されていた土地は272万町歩

(一町歩は約0.9ヘクタール)であったが、併合後に挑戦総督府が土地調査を行ったところ、

487万町歩と確定された。

倍近く増えた土地の正体は「隠田」と呼ばれるもので、

両班などが税逃れのために不正に耕作地としての記録を抹消した土地であった。

自国の土地面積さえ正確に把握できていなかった時点で、

李朝には行政統治能力が欠如していたと言わざるを得ないが、

このような「隠田」の一掃によって生まれた新しい土地を、

挑戦総督府は挑戦農民や日本からの移住民に分配したのである。

現在の韓国人たちは、この土地分配を「日帝による挑戦農民の小作農化」として非難しているが、

そもそも挑戦農民の大部分は農奴であったことを忘れてはいけない。

小作農であれば収穫に対してある程度の取り分が認められるが、

農奴であった李朝時代の挑戦農民は文字通り奴隷状態にあり、搾取の対象でしかなかった。

挑戦農民は日本によって「奴隷解放」されたのだ。

挑戦総督府が行った土地分配等の農政、農地改革によって、

挑戦半島の穀物生産高は併合から30年足らずで倍以上にその収穫高を伸ばしており

「春窮、麦嶺越え難し」【※2】と言われた李朝農民の惨状は日本によって劇的に改善されたのである。

!!併合前の挑戦農民は奴隷そのものであった

──────────注釈

【※2】

「春窮、麦嶺越え難し」

挑戦半島に古くから伝わる諺。

挑戦農民は収穫の大半を年貢として徴収され、手元に残された農作物も春までに食いつくしてしまう。

次の収穫まで飢えに苦しむ期間を春窮期と呼び、これを越えられず

餓死する農民も多かった。

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【嫌韓】【侵略、植民地支配を謝罪しろ】 05

【侵略、植民地支配を謝罪しろ】 05

挑戦人たちから土地を奪った

──────────妄言

挑戦農民の土地を強奪し、収奪の限りを尽くした!

☑︎日帝は挑戦民衆から土地を奪い去った!

☑︎農民を小作農にして、収奪の限りを尽くした!

☑︎挑戦各地鉄杭を打ち、龍脈を断とうとした。!

底無しの欲望を持つ日帝は、それまで豊かな土地で平和に暮らしていた挑戦農民から土地を強奪し、

農民たちを小作人として収奪の限りを尽くした。
さらに韓民族の精気を断ち切るために、風水による呪いの鉄杭を大地に打ち込み、

半島の龍脈を断とうとするなど言語道断の悪事を働き、挑戦半島を絶望のどん底にたたき落としたのだ。

──────────真実

日本は両班による土地収奪を止めさせ挑戦農民を救った

☑︎挑戦民衆の土地を奪ったのは両班

☑︎日本は挑戦農民を奴隷状態から救った

☑︎李朝ではまともに土地測量ができなかった

挑戦民衆の土地を奪ったのは日本ではなく両班

韓国人が主張する日帝の「土地強奪神話」は完全な虚偽である。

この「土地強奪神話」の多くは、李朝時代の両班が民衆から土地を奪うなどした

暴虐非道がが、後世の韓国人たちの捏造によって「日帝の暴虐」にすり替えられたものである。

李氏挑戦末期の記録、ダレ神父の「挑戦事情」【※1】 (1874年)の中で、

両班による土地強奪の様子が次のように書かれている。

「両班は、世界中で最も強力にして、傲慢な階級である。

彼らが強奪に近い形で農民から田畑や家を買うときは、ほとんどの場合、支払いなしで済ましてしまう。

しかも、この強奪行為を阻止できる守令 (現在の知事に相当)は1人もいない。」

そもそも挑戦の土地は日本が進出する前に、すでに欧米に侵食されていた。

第26代国王の高宗自身が周囲の反対を押し切り、列強各国に国土を売っていたのだ。

挑戦半島南部の馬山浦地域もロシアに売り払われており、

ロシアはこの馬山浦に不凍港を建設することによって対馬海峡から日本海、

オホーツク海に抜ける極東シーレーンの完成と日本への軍事的圧迫を加えることを画策したのである。

さらに1903年には鴨緑江河口にある龍石浦が軍港建設を目的にロシアに売却され、

日露の対立がさらに強まっていった。

高宗による土地の乱売は、日露戦争の直接的な回線要因となったのだ。

!!国王が率先して外国に国土を売り渡していた

──────────注釈

【※1】挑戦事情

平凡社(東洋文庫367)。

正式書名は、「挑戦事情挑戦教会史序論 その歴史、制度、言語、風俗及び習慣について」。

現在は絶版となっている

【写真】

転載しない。

李氏挑戦時代の両班が奴隷に乗り物を引かせている。

当時の挑戦の技術では二輪車を作ることができなかった。

この乗り物が一輪車になっていて猫車と言われる。

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【嫌韓】改名は挑戦人の自由意志によって行われた

改名は挑戦人の自由意志によって行われた

この「改名」が強制されていなかった証拠に、当時の挑戦人の2割ほどは

そのままそのまま挑戦名を使い続けており、もちろん何の処罰も受けていない。

またホンサイク【※5】中将、ペクホンソク【※6】少将の例を見てもわかるとおり、

挑戦名のまま日本の将軍職を務めた挑戦人も存在する。

また、キムソクウォン【※7】大佐は挑戦名のまま活躍し、

当時の軍人最高勲章にあたる金鵄勲章を受賞している。

現代の韓国人が主張する通り「改名」が強制だったとしたら、

昇進、受勲どころか軍職にとどまることもできなかったはずである。

その一方、挑戦近代文学の父と呼ばれるイグアンス(著作に「無常」、「民族改造論」など多数)は

「香山光郎」と改名し、内鮮一体を訴えて「毎日新報」で改名についての見解を述べている。

「私は天皇の臣民である。私の子孫も天皇の臣民として生きるだろう。

リグアンスと言う氏名でも、天皇の臣民になれない事は無い。

しかし香山光郎のほうが、より天皇の臣民たるにふさわしいと信じるためである。

」「創氏」は、近代国家建設に不可欠な戸籍制度を整備するために「強制」された面もあった。

しかし「改名」は、挑戦人側からのたび重なる要請によって実現したものであり、

日本名を望んだのは挑戦人自身であった。

改名は創氏と違って強制性はなかったにもかかわらず、当時の挑戦人たちは先を争って日本名に改名しており、

日本人になれたことを心の底から喜んでいたのである。

反日に凝り固まった現代の韓国人たちにとっては許しがたい過去であり、

これをなかったことにするために彼らは、「創氏改名によって日本名を強制された」と

歴史を捏造して日本を非難しているのである。

!!「創氏改名で名前が奪われた!」は、まったくのデタラメ

──────────注釈

【※5】ホンサイク

挑戦人の日本陸軍中将。1944年に中将に昇進。戦後、フィリピンの比島俘虜収容所長であった頃の

責任を問われ、1946年にマニラで戦犯として処刑された。

【※6】ペクホンソク

挑戦人の日本陸軍少将。1932年の満州国建国時。「満州国協和会」という政治団体に名を連ね、

満州国での政策指導などを行なった。

【※7】キムソクウォン

挑戦人の日本人陸軍大佐。日中戦争時には、日本人将兵を率いて活躍し、金鵄勲章を授与された。

のちに韓国軍の将官となり、挑戦戦争でもさらなる活躍を見せた。

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【嫌韓】かつての借りを返す時では?

日英の最初の出会いは19世紀初めフェートン号が長崎港に殴り込みをかけた事件だった。

日本人はなんと乱暴な国があるものかと大いに驚いた。

で、対処の方法を考えるためまず英和辞典「諳厄利亜語林大成」を作った。

後に同じ言葉話し、もっと凶暴な米国人が来たときにそれは大いに役立った。

これは良い反面教師的だけれど英国は実際、いいこともしてくれた。

幕末、ロシア艦ポサドニックが対馬に来て村々を荒らした上、港の租借と遊女の差し出しを要求してきた。

幕府が下手に対応すれば対馬占領もありえた。

実際、明治8年、同じようにロシア艦が樺太にやってきて同じような脅しをかけてきた。

日本は独力では抗しきれずロシアは樺太を手に入れている。

対馬もあわやと言う時に英公使オールコックが軍艦二隻を派遣してロシア艦を追っ払ってくれた。

感謝してもしきれない良い結末だった。

そのロシアと挑戦を挟んで再び対決した時英国が軍事同盟を結んでくれた。

日本はロシアと戦うだけでよかった。

日本嫌いの独仏がもしロシアを助けたりすれば英国は直ちに参戦し独仏を倒す約束だった。

誰も世界最強の英国と戦いたくはなかった。

バルチック艦隊は日本海に入る前、仏印カムラン湾で休養取れるはずだった。

が、仏政府は日英同盟を恐れて艦隊の入港を認めなかった。

将兵は地球4分1周する長い航海の疲れも取れないまま聯合艦隊と対馬沖でぶつかった。

ロシア艦隊全滅と言う大勝利の2割位は英国のおかげだった。

その日英同盟は米国の狡猾と幣原喜重郎の間抜けのせいで消滅する。

それもあって先の戦争が起きて日本は負けた。

戦後の日本は米国の壟断に振り回されたが、そんな時も英国はごく普通の対応をしてくれた。

米国は日本が白人国家に二度と立ち向かえないよう航空機産業を徹底的につぶした。

航空機の運航も製造も航空力学の講義も禁じた。自動車工業も同じ。

製造も研究も禁じ、戦前までやっていたフォードやGMの現地生産もやめさせた。

重工業も同じく完全解体のはずだったが、南北挑戦が実に良いタイミングで戦争を始めてくれた。

日本は米軍の後方基地としてその工業力を生き残らせることができた。

こんな時英国が日本自動車産業の救世主になった。

オースチンが日産とヒルマンがいすゞとノックダウン契約を結んで戦後の空白を埋められた。

先の戦争は米国が石油を絶ったことで始まった。

戦後の日本のエネルギー事情もなんら改善はなかった。

政府は原発の導入を考えたが、米国は断固拒絶した。

日本が核を持てばいつか広島長崎の仇を取られると彼らは考えているからだ。

その時にまた英国が手を差し伸べた。

日本は英国製黒煙型減速型の原子炉を手に入れて稼働させた。燃料は安い天然ウランで良い。

これに驚いたのが米国だった。黒煙原子炉は燃やせば核爆弾になるプルトニウムが得られる。

日本はすぐにも核兵器を持てる。米国は慌てて方針を変えた。

黒煙原子炉を廃棄させる代わりに軽水炉を与えることにした。

この炉なら核兵器になるプルトニウムはできないからだ。

それで日本はエネルギー自給体制をある程度まで実現することができた。

原発についてもノウハウを身に付け、今や日立が英国に恩返しの軽水炉を輸出するところまで来ている。

EU離脱で苦しむ英国は大助かりだろう。

ただ輸出するには出資金が足りない、断念せざるをえないと日立は言う。

政府は反原発の旗を振る朝日新聞の嫌がらせを恐れて援助を躊躇う。

かつてあの挑戦如きに国家予算の2割を36年間も無駄に投入してきた。

その36分の1でも英国向けに回したらどうか。

歴史に刻まれた恩義の何分の1は返せる。

挑戦と違ってきっと意味あるものになるはずだ。

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