半日韓国人撃退マニュアル Archive

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【北方領土問題】もし北方領土問題が解決したら?

週刊新潮、佐藤氏の文

2019年の大予言は、衆議院と参議院のダブル選挙だ。

これは北方領土問題の解決と密接に関係している。

1月末に安倍晋三首相が訪露し、プーチン大統領と会談することが予定されている。

この首脳会談で、歯舞群島と色丹島は日本の施政下にあることを確認し、

国境線を確定し、国後島と択捉島に関しては、ロシアの主権を認めた上で、

日本人が簡易な手続きで訪問し、経済活動などを行う仕組みを作ることになるであろう。

こうして2島返還+ αで北方領土問題が解決し、日露平和条約が締結される道筋が定まる。

1951年のサンフランシスコ平和条約で日本が国後島と択捉島を放棄した経緯があると言う

基本的事実さえ不勉強でよく知らない1部の野党が「4島変換は国家の基本原則だ。

絶対に譲るべきではない」とナショナリズムを煽って安倍政権を攻撃するであろう。

ちなみに日本共産党は、北方四島に加え、ウルップ島からシュムシュ島までの18島を含む

22島の返還を要求している。

安倍政権としては、「それならば、民意を問いましょう」と言って、

衆参ダブル選挙に踏み切る可能性がある。

参院選だけを見ても、野党の選挙協力は進んでいない。

これに衆院選が加われば、役野党間の足並みはいっそう乱れる。

自民党と公明党にとって有利な流れができる。

首相官邸に北方領土交渉と政局を総合的に考え、巧みな戦略を練る知恵者がいるようだ。

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【嫌韓】改名は「任意」であり、「許可制」だった

改名は「任意」であり、「許可制」だった

では「改名」についてはどうだったであったろうか。
?

改名について考えるにはまず挑戦特有の同族価値観、

すなわち本貫【※3】制度について考える必要があるだろう。

本貫は祖先の発祥地としての意味を持っており、わかりやすく言えば

日本人にとっての本籍地のようなものであるが、

日本の戸籍制度にある本籍地と違って一旦登録された本貫を変更することはできない。

挑戦には「異姓養わず、同姓娶らず」と言う言葉がある。

先述の「生野村の大作」を例にすれば「生野村」が本貫にあたり、

同じ生野村出身者でなければ養子として迎えることができず、

また同じ生野村出身者同士では結婚ができない。

「生野村」と言う本貫の規模が小さければまだ良いが、

挑戦最大の宗族と言われる「金海金」(金海州出身の金の意味、韓国だけで400万宗族とされる)

のような巨大な同族関係の中にあれば、様々な社会的制約が課せられることになる。

そこで、本貫にとらわれない日本名を持つことを挑戦人たちが切望したのである。

また、満州地方などに出稼ぎに出ていた挑戦人からは、

満州人や中国人たちに旧属国民として差別されるため、日本名への改名を許可してほしいとの請願が

相次いで日本側に寄せられたのである。

これに応える形で1940年に挑戦総督府は挑戦民事令での改正令を発令し、

1912年に制定された民事令によって個別に持つことが定められた「氏」を

日本名に改名することが許されることになったのである。

ここで注意しなければいけないのは「改名」が強制ではなく「許可制」であったことである。

改名は府令第19号附則第二項の「氏設定届」により自己届出制であり、

同府令大20号には裁判所の許可による「氏名変更」制度であることが記載されてることからも、

「改名」は任意制であったことは明らかである。

さらに当時の挑戦総督であった南次郎は、改名を絶対に強制しないように

3回も総督府官憲に対して訓令を出している。

!!日本名 の改名を求めたのは挑戦人だった

──────────注釈

【※3】本貫

先祖の出身地を指す。

この本貫が同じで、姓も同じであれば、同一の血縁集団とみなされる。

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【嫌韓】挑戦人は「ファミリーネーム」を持っていなかった

挑戦人は「ファミリーネーム」を持っていなかった

「創氏」と「改名」を「創氏改名」とひとくくりに考えてる人も多いが、本来これらは別の話である。

まずは「創氏」について説明していこう。

1912年3月に制定された挑戦民事令で【※1】及び1941年2月施行の挑戦民事令改正により、

「創氏」は挑戦半島の住民に義務付けられた。

それまでにそれまで挑戦人は「姓」があったが「氏」はなかったのだ。

この状況で理解してもらうために「生野村の大作」を例に説明しよう。

この場合、挑戦人にとって「生野村」が姓になり「大作」が名になるのである。

日本人のように個々に氏(田中、鈴木、池田など個別の氏、ファミリーネーム)を持っていたのではなく、

大きなカテゴリー(挑戦ではこのカテゴリーが同祖【※2】)となり、

それが後述の本貫となる)で姓を持っていたのである。

また、併合前の挑戦女性は完全に物扱いで、名前さえなかったものも多かった。

あの閔妃でさえ「閔妃の妃」と言うことで閔妃と呼ばれていたが、その名前は伝わっていないのだから、

一般民衆の女性には、まして被差別民の名前については想像に難くない。

挑戦半島で戸籍制度を整える必要性から、挑戦総督府は氏を持たない挑戦人に対し、

個別に氏を持つように義務づけたのである。

1940年2月11日から8月10日までの半年間、挑戦人は自分で氏を決めて届けることができた。

届け出をしなかった場合は、普段使っている姓が自動的に氏として登録されることになった。

韓国人が現在も非難して止まない「創氏」とは、ただそれだけの話に過ぎないのである。

→!!戸籍制度の整備のために氏を登録させたのが「創氏」

──────────注釈

【※1】挑戦民事令

1912年に公布された挑戦半島向けの民法に相当する法令。

婚姻や土地売買、民事訴訟等について定めたもの。

当初の明事例では、結婚しても女性の姓は変わらなかった。

そこで1939年の民事令改正では、日本の民法で言う所の「氏」を、

挑戦の戸籍にも付け加えをようとした。

【※2】同祖

姓が同じで、先祖の出身地(本貫)も一緒の場合を指す。

この2つが同じ場合、先祖が同じ、つまり血縁関係にあるとされる。

同祖のその男女が結婚するのは近親婚とみなされ、近年まで禁止されていた。

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【嫌韓】創氏改名によって挑戦の名前を奪った

【侵略・植民地支配を謝罪しろ】 04

創氏改名によって挑戦の名前を奪った

──────────妄言

創氏改名により日帝は挑戦人の名前を奪った!

☑︎挑戦人は自分たちの名前に誇りを持っている!

☑︎創氏改名を強制して挑戦人から名前を奪った!

☑︎挑戦人は強制的に日本名に改名させられた!

挑戦民族の抹殺画策した日帝は、同化政策を推し進めて挑戦人から名前まで奪い去った。

数千年の伝統をもつ誇らしき名前を奪われた挑戦人たちは、汚らわしい日本名の改名を強制されたのだ。

日本名を名乗ることを喜ぶ挑戦人など、1人もいなかったに決まっている!

──────────真実

日本名の日本名の改名を求めたのは挑戦人たちだった

☑︎挑戦人民族は名前に誇りなど持っていない

☑︎創氏は「強制」だが、改名は任意だった

☑︎改名しなかった挑戦人も大勢いた

名前に誇りを持たなかった挑戦民族

挑戦人の名前の変化を見れば、彼らが自分たちの名前に対してそれほど強い思いやりや

誇りを持っていなかったことがよくわかる。

「古事記」や「日本書紀」に出てくる古代挑戦人の名前を見ると、

「阿直岐(あじき)」「興首(ふんす)」「階伯(けべっく)」など現在とは全く違う名前である。

高麗時代に現在の中国式名前に統一されたが、その後モンゴル(元)が中華の覇者となると

国王までもがモンゴル風の名前に改名し、明が元を倒すと再び中国式の名前に戻し、

そして日本に併合されると今度はこぞって日本名と解明したのである。

挑戦人は常に時代の強者に事大代して、挑戦半島の主が変わるたびに自分たちの名前まで平気で変え続けてきた。

それが今になって「日本に強制された創氏改名で誇らしい挑戦名を奪われたた!」などと叫ぶのは、

滑稽千万と言わざるを得ない。

挑戦民族は主人が変わるたびに名前を変えてきた。

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【嫌韓】日本は奴隷解放を実施し、民衆に教育を与えた

日本は奴隷解放を実施し、民衆に教育を与えた

愚民化を推し進めた中華礼賛の李朝

当時の朝鮮について書かれたダレ神父【※11】「朝鮮事情」には次のような記述がある。

「朝鮮における学問は全く民族的なものではない。

読む本と言えば中国のもので、学ぶことの言葉は朝鮮語ではなく漢語(中国語)であり、

歴史に関しても朝鮮史はそっちのけで中国史を研究している。

「李朝は中国に事大して小中華(明の正統な後継者を自称し、朝鮮人は自らを小中華と読んだ)を標榜し、

自分たちの歴史や文化、文字(ハングル)を徹底的に見下した。

両班たちが学ぶのは中国の文字や歴史ばかりであり、そもそも大多数の民衆は教育の機会すらなかった。

現代の韓国人は「日帝は朝鮮人の愚民化政策を推し進めた」などとなどと主張しているが、

実際には朝鮮人自身(李朝)が長年にわたって朝鮮の文化を否定し、愚民化政策を行っていたのだ。

朝鮮の発展を目指した日本は朝鮮総督府を通じて、朝鮮全土に学校を建設して子供たちに教育を施し、

それまで省みられることのなかったハングルを朝鮮固有の文字として必須科目とし、

併合当初から学校教育に取り入れたのである。

現在、韓国人がハングルを読み書きできるのは、この朝鮮総督府によるハングル普及によるものであり、

また、朝鮮史上初の奴隷解放である「四民平等」を断行して、

被差別階級であった賎民に至るまで広く教育を施したのだ

これの一体どこが「愚民化政策」だったと言うのだろうか?

──────────注釈

【※11】ダレ神父

19世紀半ばに、アジア各地でカトリックを布教したフランス人宣教師。

李朝のキリスト教弾圧により処刑されたダブリュイ主教の集めた資料を整理して、

「朝鮮事情」を出版した。

これは「朝鮮教会史」と言う本の序論部分にあたる。

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【嫌韓】数多くの学校挑戦半島に設置した挑戦総督府。

数多くの学校挑戦半島に設置した挑戦総督府。

女性蔑視、身分差別が教育普及を阻害

李朝期の挑戦は、ハングルさえ読めない無識者が大多数を占めており、

特に女性の識字率は8%と言う状態であった。

挑戦儒教の伝統である「男尊女卑」の思想に基づき女性の教育は許されず、

女性は人間ではなく物扱いとなっていた。

イザベラ・バード【※7】の挑戦紀行によると、結婚後に挑戦の女性は名前を奪われ、

夫の所有物として扱われた。

妻は家の1番奥の隔離された部屋に住まわされ、外出する事はよほどの事情がない限り許されなかったと言う。

挑戦半島における教育普及を探していた最大の要因は、李朝の階級社会にあった。

李朝は王室、両班を頂点とするピラミッド型の階級社会構造を形成しており、富と知識を独占していた。

民衆はあくまで収奪の対象であり、教育の機会が与えられる事はなかった。

特にその底辺に位置する賎民(白丁【※8】など)は差別の対象であり、人間扱いすらされていなかった。

『挑戦社会経済史研究』 (国書刊行会)によると、1690年の挑戦の階級比率は、

両班が8%、中人【※9】と常民【※10】が51.5%、賎民が40.5%と言う数字が出ており、

挑戦人のほとんどが教育から阻害されていたことがわかる。

日本に併合されたことでこのような身分制度が撤廃され、

身分による差別を受けることなく等しく教育を受けられるようになったのだ。

──────────注釈

【※7】イザベラ・バード

イギリスの女性旅行家。

アメリカ大陸やアジア諸地域への旅行を行なった。

1878年に日本を訪れ、東北、北海道の旅行記を後に(日本奥地紀行)

(邦訳は高梨健吉、平凡社)も出版している。

挑戦は1894から1897年の間に4度も訪ねた。

このときの記録が「挑戦紀行」である。

【※8】白丁

李朝時代の身分制度で、賎民の中でも最底辺に位置する被差別民。

韓国読みでは「ペクチョン」。現代では罵倒語として使われることも。

【※9】中人

両班と常民の中間階級として設けられた身分。

翻訳や芸術などの技術を持ち、下級官吏となることもできた。

【※10】常民

農業や商業などを含む、一般庶民のこと。

別名(良民)とも呼ばれる。

ただし、学問や夜間外出などが禁じられていた。

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【嫌韓】日本はハングルを弾圧したのではなく、普及させた

日本はハングルを弾圧したのではなく、普及させた

朝鮮で初めて一般民衆に学校教育を行った

李朝期、学校と呼べるような存在は、郷校【※3】や書院【※4】書道【※5】といった

特権階級の子弟が通うものしかなかった。

これらの学校は、漢字の読み書きや四書五経、朱子学などを学ぶ場であり、

彼らが蔑んだ「無職の文字」「愚民文字」ハングルが教えられる事はなかった。

そして李朝末期にはこの書院等に政争に敗れたで両班など、無頼の輩が集まるようになり、

ほとんど犯罪者の巣窟と化していた。

1871年に大院君は「書院閉鎖令」を出し、書院の一掃を断行している。

全国13道に650校を超えていた書院を、一道に二校以下とし、それ以外の書院を順次閉鎖していった。

これによって書院はその後47校まで激減している。

1910年の併合時、朝鮮半島には普通学校(日本の小学校に相当) は100校ほどしかなく、

日本はそれを1942年の時点で4945校まで増やしている。

朝鮮総督府は朝鮮半島における初等教育の普及に力を注ぎ、

1920年に「3面1校増設計画」(面とは朝鮮の行政区画単位、

当時の朝鮮半島には約2500のの面が存在していた)を打ち出し、1929年には「1面1校増設計画」へ以降、

さらに1937年には「初等教育拡充倍加計画」打ち出して教育の拡充を推し進めていた

普通学校以外の各種学校の教育インフラとしても、1944年5月末の時点で中学校75校、

高等女学校75校、実業学校133校、実業補習学校145校、師範学校16校、

専門学校24校、大学予科1校、大学(京城帝国大学)1校を設置しており

【※6】、総計470校を数えるに至っている。

特に帝国大学は日本にも7校(帝国大学全体としては台北帝大を含めて9校)しかなく、

京城帝大(現在のソウル大学)は1924年に6番目の帝国大学として設置されている設立されている。

いかに日本が朝鮮半島の教育普及に力を注いでいたか理解できるだろう。

──────────注釈

【※3】郷校

国立の地方教育機関。官僚養成予備校のようなもので、ここから成均館(李朝の最高教育機関)に入学し、

さらに科挙をクリアすることで、政界へと進むことができた。

【※4】書院

私立の儒教教育機関。ここに入れるのは両班のみで、科挙の準備や朱子学の講義が行われた。

李朝中期には有象無象の書院が乱立し、李朝末期には大きな社会問題となるまでに至った。

【※5】書堂

書院と同様、私立の儒教教育機関。日本で言うところの寺子屋に相当する、初等教育の場であった。

【※6】戦前期の学制

この時期の学校教育システムでは尋常小学校(6年制、義務教育。4年制のところもあり)で初等教育受けた後、

高等小学校(2年生、義務ではない)に進んでから就職するか、中学校(5年生の普通科、男子のみ)、

高等女学校(4年生、女子のみ)工業、商業などの実業学校(5年生、専門的技術を習得)

実業補習学校(3年生、技術習得でなく職業訓練行う)といった中等教育へ進む。

さらに高等教育として師範学校(7年制、女子は6年、小中学校の教員資格を得る)、

専門学校(3年制、実業学校以上の専門教育を行う)、大学予科(2年制、大学付属の短期教育機関)に進学。

その上に大学(3年制)が位置していた。

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【嫌韓】韓国の「併合条約不法論」は国際的に通用しない

韓国の「併合条約不法論」は国際的に通用しない

【侵略・植民地支配を謝罪しろ】 03

日本はハングルを禁止した。

──────────妄言

☑︎日帝はハングルを弾圧して民族の言葉を奪った。

☑︎民族の誇りであるハングルを弾圧した!

☑︎日帝は朝鮮の教育制度を破壊した!

☑︎愚民化政策を進め、朝鮮から教育を奪った!

世宗大王によって制定された偉大な文字「ハングル」を日帝は弾圧し、我々朝鮮人から文字を奪った。

さらに朝鮮の教育制度を解体し、愚民化政策を推し進めた。

わずかに残された学校でもハングルは禁止され日本語が強制された。

朝鮮民族を愚民化・奴隷化しようとしたのだ。

このような世界史上最悪の暴政について、日本人は永遠に謝罪しろ!

──────────真実

ハングルを朝鮮の民衆に広めたのは日本!

☑︎ハングルを愚民文字と蔑んだ朝鮮人

☑︎日本が初めて民衆に学校教育を行った

☑︎愚民化を推し進めた中華礼賛の李朝

ハングルを愚民文字と蔑んだ朝鮮人たち

ハングルとは、15世紀に李朝4代世宗王によって制定された「訓民正音」【※1】で公布された

朝鮮独自の文字である。

しかしながら「訓民正音」の序文に書かれているように

「漢語、漢文が使えない「愚民」のために作られた文字」とされ、「無職の文字」「婦女子の文字」と蔑まれ、

李朝末期に至るまではほとんど普及しなかった。

当時の知識人からも「漢字以外の文字を使うのは蛮族の証」と猛反発を受け、

「諺文」と言う蔑称で呼ばれた。

李朝でのハングルの扱いはひどく、李朝10代燕山君は「諺文教授学習禁止令」を出し、

11代中宗王は「諺文庁」を閉鎖している。

本来「愚民」の識字率を上げるための文字であったが、このような「ハングル弾圧」によってか、

李朝の識字率は著しく低かった。

ハングルは民衆に向けた1部の公布文以外には公文書で使われた事はなく、

科挙【※2】でもハングルは使われることがなかった。

また李朝期の文学作品を見ても、大衆娯楽小説の趣の強い「春香伝」などの1部を除いて、

現在に伝わる古典のほとんどが漢文で書かれている。

日帝が奪ったどころか、もともと朝鮮人自身がハングルを国語として否定してきたのだ。

しかし福沢諭吉提案の挑戦初の漢字交じりハングル新聞「漢城週報」(1886年)の発刊をきっかけに、

朝鮮人の間にハングルの重要性が認識され始めた。

そして併合後、日本は朝鮮で初等教育の普及を行い、全国の学校でハングルが教えられることになった。

世宗によるハングル制定から460年以上を経て、

日本によって初めてハングルは全国に普及することになったのだ。

1911年、朝鮮総督府は「諺文綴字法研究会」を発足させ、「普通学校用諺文綴法」を決定し、

これを教科書として採用している。

併合当時の朝鮮学校で使われていたハングル教科書も残っており、

朝鮮併合期を通じて広く朝鮮人にハングルを広めたのは、日本、朝鮮総督府であることがわかる。

1938年から朝鮮総督府は、学校教育で朝鮮語と日本語の選択を各学校で自由に行えるようにした。

これをもって「日本はハングルを弾圧した」と主張する韓国人は多いが、それは間違っている。

あくまで自由に選択できるようになっただけであり、その選択は各学校長(校長)の判断に委ねられていた。

むしろ朝鮮人校長が日本に事大してなのか、率先して日本語を選択し、

日本人校長の学校では朝鮮語が選択されることが多かったと言う。

日本人校長の方が朝鮮人校長より圧倒的に人数が多く、つまり実態としては、

多くの学校でハングル教育がそのまま続けられたと考えられている。

また、1939年まで朝鮮語の学習を奨励する「挑戦語奨励費」が支出されており、

併合から30年間日本が率先して朝鮮語学習を日本人にも奨励していたのだ。

日本が朝鮮からハングルを奪ったと言うのは明らかな間違いなのである。

──────────注釈

【※1】「訓民正音」

世宗がハングルを公布した書物。

ハングルの当時の呼び名でもある。

漢字の読めない民衆でも読み書きできるように考案した、という趣旨の序文が書かれているが、

この書自体は漢文で書かれている。

【※2】科挙

中国で行われていた官僚登用試験のこと。

儒教的な教養を問うもので、中華帝国の属国であった、儒教国家の李朝でも、

この試験が行われていた。

ただし中国の科挙と違い、受験資格が貴族階級(両班)にしか与えられていなかった。

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【嫌韓】英の学者ら「日韓併合不法論」支持せず韓国主張崩れる

英の学者ら「日韓併合不法論」支持せず韓国主張崩れる

日韓の歴史認識問題で大きな争点になっている日韓併合条約について

合法だったか不法だったかの問題をめぐり、このほど米ハーバード大で開かれた国際学術会議で

第三者の英国の学者などから合法論が強く出され、

国際舞台で不法論を確定させようとした韓国側の目論見が失敗に終わったと言う。

合法論は国際法専門のJ、クロフォード英ケンブリッジ大教授らから出され

「自分で生きていけない国について周辺の国が国際的秩序の観点から

その国を取り込むと言う事は当時よくあったことで、

日韓併合条約は国際法上は不法なものではなかった」と述べた。

また韓国側が不法論の根拠の1つにしている強制性の問題についても

「強制されたから不法と言う議論は第一次世界大戦(1914から1918年)以降のもので当時としては

問題になるものではない」と主張した。

韓国側は「条約に国王の署名がない」ことなどを理由に不法論を主導している

李泰鎮ソウル大教授はじめ全員が不法論で会議をリードしようとした。

しかし日本の原田教授は併合条約に先立ち日本が外交権を掌握し韓国本国にした日韓保護条約について、

皇帝(国王)の日記など韓国側資料の「日省録」や「李政院日記」などを分析し、

高宗皇帝は条約に賛成し批判的だった大臣の意見を却下していた事実を紹介し注目された。

併合条約に国王の署名や批准がなかったことについても、国際法上必ずしも必要なものではない

とする見解が英国の学者らから出されたと言う。

ここで述べられているように、当時の時代性を考慮すれば、1910年の時点では、

併合条約は不法なものではなかったのである。

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【嫌韓】内紛で自壊したテロ集団の巣窟「上海臨時政府」

内紛で自壊したテロ集団の巣窟「上海臨時政府」

欧米の国際法学者の結論「日韓併合条約は合法」

日韓併合条約について、日本は「国際法上問題がない」と言う立場をとっている。

それに対し韓国は「条約は武力によって強制されたものであり、無効である」と主張している。

しかし国際法上では「国家への威嚇の下の条約締結」は合法なのである。

「個人への威嚇によって条約が結ばれた場合は違法」とする見解もあるが、

条約締結の責任者であった李完用は、現在も「進んで国を売った売国奴」と韓国で糾弾されており、

「個人への威嚇」のもとで条約が結ばれたと言う主張は通らない。

「条約に大韓帝国皇帝の署名御璽がなかったこと」を持って無効論を展開する向きがあるが、

条約上正本に記名調印するのは特命全権大使、公使また外務大臣であるのが国際慣例であって、

必ずしも国家元首の署名は必要ではない。

当時の法制上も皇帝の証明御璽が必要なのは国内行為に対してであって、

対外行為についてはその限りではなかった。

また総理大臣と言う役職は皇帝の代理人として条約の調印を行う権利を持っており、

皇帝の御璽がないことを理由に条約無効を主張することができないのである。

2001年11月27日の産経新聞に条約の行動についての最終的な答えとなる記事が掲載されているので紹介しよう

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